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ゲラルドゥス・メルカトル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲラルドゥス・メルカトル
生誕 ゲラルト・デ・クレーマー または ゲラルト・デ・クレメル
1512年3月5日
ネーデルラント17州の旗 ネーデルラント17州 フランドル伯領英語版 フランドル ルペルモンデ英語版
死没 (1594-12-02) 1594年12月2日(82歳没)
ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国 デュースブルク
研究分野 地理学
出身校 ルーヴェン大学
主な業績 メルカトル図法
プロジェクト:人物伝
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Gerardus Mercator, 151235 - 159412216Gerard De Kremer

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メルカトルは早くから、世界各地の地図を総合した世界地図帖を編纂する計画を持っていたが、原図となる各国の地図を入手し難いことや、地図の銅板彫刻に多大の時間を要するために、計画は容易に実現されなかった。ようやく1585年にフランス・ネーデルラント・ドイツの51図が、また4年後の1589年にはイタリア・スラヴォニアギリシャの23図が出版されたが、1594年にメルカトルが没したので、翌1595年に息子のルモルドによって、イギリスその他のヨーロッパ諸国とアジア・アフリカ・アメリカの諸図を加えた107図による地図帖が完成した。表題はメルカトルの遺志によって、ギリシャ神話の天空を支える巨人の名にちなんで「アトラス」と名づけられた。以後、地図帖はアトラスと呼ばれるようになる。

メルカトルの時代には、まだ積分法は知られていなかったので、赤道からの緯線距離の算出をメルカトルは級数の和として近似的に計算したにとどまり、作図に必要な数学的根拠を明らかにしなかったので、メルカトル図法は普及するに至らなかった。海図をはじめ世界図にも用いられるようになったのは1599年にイギリス人のエドワード・ライト英語版が数値計算法(今日でいうリーマン和による方法)を用いて緯線距離を導き出し、作図に必要な数表を作成してからである。この緯線距離は正割関数を被積分関数とする定積分で表され、当該積分はアイザック・バローによって初めて閉じた式として求められたとされ(年代不詳)、1668年ジェームス・グレゴリーによっても求められた。今日では、この緯線距離式はグーデルマン関数の逆関数(ランベルト関数とも呼ばれる)に相当すると解釈される。

地図作成の略年[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Gerardus Mercator”. Britannica Online Encyclopedia (2012年11月22日). 2012-11-22.閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]