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この項目では、モンゴルの部族について説明しています。内モンゴル自治区の旗については「ジャライド旗」をご覧ください。 |
ジャライト︵モンゴル語‥Жалайд、漢語‥扎賚特、英語‥Jalaid︶は、15世紀前期に形成されたモンゴルの一部族。その遠祖はチンギス・カンの弟のジョチ・カサル。
ジャライト部はチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの15代目の子孫であるボディダラ︵博第達喇︶の9人の子のうち、末子のアミン︵阿敏︶から始まる。兄のジジク︵斉斉克︶,ナムサイ︵納穆賽︶等と隣り合って遊牧し、その所部をジャライト︵扎賚特︶と号した。
後金の天命9年︵1624年︶、アミンの子マンクウェン︵蒙袞︶はホルチン︵科爾沁︶部タイジ︵台吉︶のオーバ︵奥巴︶と共に後金へ遣使を送って好を乞うたため、ヌルハチの許しを得て、後金︵清朝︶に帰順することとなった。
順治5年︵1648年︶、マンクウェンの子スーラン︵色稜︶はジャサク︵扎薩克︶を授かり、ホルチン部と同祖であることから、ホルチン部に附いてジェリム︵哲里木︶盟に属した。旗は一つで、トゥボシェンチャハン︵図卜紳察罕︶坡に駐屯した。その爵はグサ・ベイセ︵固山貝子︶からジャサク・ドロイ・ベイレ︵扎薩克多羅貝勒︶に進み、代々世襲した。
光緒25年︵1899年︶、黒龍江将軍の恩澤︵エンジェ︶等の上奏により、ジェリム盟諸旗の開墾が相次いで開始された。
光緒31年︵1905年︶、清朝は開墾地に大賚庁を設置︵現在の吉林省安達県の一部︶する。
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歴代首長[編集]
ダルハン・ホショジ︵達爾漢和碩齊︶
(一)マンクウェン︵蒙袞︶︵1624年 - 1643年没、固山貝子‥1648年追封︶…ジョチ・カサルの後裔アミンの子。
ジャサク・グサ・ベイセ︵扎薩克固山貝子︶
(一)スーラン︵色稜︶︵固山貝子‥1648年 - 1664年︶…蒙袞の長子。
(二)ビリク︵畢里克︶︵1664年 - 1677年︶…色稜の長子。
(三)ナシュン︵納遜︶︵1678年 - 1703年︶…畢里克の長子。
(四)トグス︵特古斯︶︵1703年 - 1732年︶…納遜の長子。
ジャサク・ドロイ・ベイレ︵扎薩克多羅貝勒︶
(一)トグス︵特古斯︶︵1732年 - 1740年︶
(二)ウチャラレトゥ︵烏察喇勒図︶︵1740年 - 1756年︶…特古斯の長子。
(三)ロブサンシラブ︵羅卜藏錫拉布︶︵1756年 - 1773年︶…烏察喇勒図の長子。
(四)アムフラン︵阿穆祜朗︶︵1773年 - 1786年︶…羅卜藏錫拉布の長子。
(五)マシェンバトゥ︵瑪什巴図︶︵1786年 - 1834年︶…阿穆祜朗の長子。
(六)ラムグウェンブジャブ︵拉木棍布扎布︶︵1834年 - 1861年︶…瑪什巴図の族弟。
ギュンワン︵郡王︶
(一)ラムグウェンブジャブ︵拉木棍布扎布︶︵1861年︶
(二)アレタンエチョル︵阿勒坦鄂綽爾︶︵1861年 - 1872年︶…拉木棍布扎布の子。
(三)ワンラクパリジ︵旺喇克帕勒斉︶︵1872年 - 1905年︶…阿勒坦鄂綽爾の子。
(四)バトマラブタン︵巴特瑪喇布坦︶︵1907年 - ?︶…旺喇克帕勒斉の子。
[2]
- ^ 『清史稿』(列伝三百五 藩部一)
- ^ 『清史稿』(表四十九 藩部世表一)
参考資料[編集]
- 趙爾巽他『清史稿』(列伝三百五 藩部一、表四十九 藩部世表一)
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