ブハラ・ハン国
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- ブハラ・ハン国
ブハラ・アミール国 - ペルシア語: خانات بخارا
ウズベク語: Buxoro Xonligi
(ブハラ・ハン国)
ペルシア語: امارت بخارا ウズベク語: Buxoro amirligi
(ブハラ・アミール国) -
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←1500年 - 1920年 →
→(国旗)
ブハラ・ハン国の版図(1600年ごろ)-
公用語 ペルシャ語、チャガタイ語 首都 ブハラ - ハン
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1561年 - 1583年 イスカンダル・ハン 1599年 - 1605年 バーキー・ムハンマド 1611年 - 1642年 イマーム・クリ 1756年 - 1758年 ムハンマド・ラヒーム 1785年 - 1799年 シャー・ムラード 1826年 - 1860年 ナスルッラー 1910年 - 1920年 ムハンマド・アーリム・ハン - 変遷
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ブハラ遷都 1557年 ジャーン朝成立 1599年 ブハラ・アミール国の成立 1785年 ロシア帝国の保護国 1868年 滅亡 1920年
ブハラ・ハン国︵ブハラ・ハンこく、ウズベク語: Buxoro Xonligi︶は、16世紀初頭から20世紀初頭まで、ゼラフシャン川流域、ヌル・アタ山地、アム川流域に栄えた諸テュルク系イスラム王朝。現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンの一部に存在した。基本的に﹁ブハラに首都を置き、ハンを推戴する国家﹂の総称なので、歴史的にはシャイバーニー朝、ジャーン朝、マンギト朝の3王朝を指す。このうちマンギト朝はハンからアミールへ君主号を変えたので、ブハラ・アミール国とも呼ばれる。
1850年のブハラ・アミール国
マンギト朝はチンギス・カンの男系男子の系統ではなかったため、チンギス統原理の意識から初期の君主はハン位を名乗ることを躊躇することがあって、ハン位を名乗ったりアミール位を名乗るなどして君主号が一定しなかったが、シャー・ムラード︵在位‥1785年 - 1799年︶の時にアミール︵アミール・アル・ムウミニーン‥信徒の長︶を正式な君主号としたので、以降をブハラ・アミール国と呼ぶことがある。歴代カリフの称号であった﹁アミール・アル・ムウミニーン﹂を採用したということは、イスラーム国家の理念を掲げるものであり、以降の君主もハンを名乗らずアミールを名乗り続けた。
19世紀においてバルカン半島から中央アジアに至る広大な地域を舞台にイギリスとロシアとの間でいわゆる﹁グレート・ゲーム﹂が展開された。北から侵攻してくるロシア帝国は、1868年にはサマルカンドを占領してブハラ・アミール国を、1873年にはヒヴァ・ハン国を占領し、1876年にコーカンド・ハン国を占領して中央アジアにおける3ハン国をロシア帝国の保護国とした︵トルキスタン総督府、ステップ総督府︶。
1920年10月、労働者の蜂起が起こり、赤軍が首都を攻撃した。蜂起後、国王は逃亡し、革命委員会が権力を掌握し、独立国家と承認された。1924年、民族派共産党員の大部分が更迭され、ブハラ人民ソビエト共和国となった。