コンテンツにスキップ

ポエニ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポエニ戦争中の両国の領土変遷。
  カルタゴ領土
  ローマ領土

ポエニ戦争(ポエニせんそう、: Bella Punica)とは、共和政ローマカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。ポエニとは、ラテン語フェニキア人(カルタゴはフェニキア系国家)を意味する[1]紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた。

第一次ポエニ戦争[編集]

カルタゴ(赤丸)とイタリア半島、シチリア島(中央の三角形の島)の位置関係。

264241

西2264退263

262255退6

249244241310

第二次ポエニ戦争[編集]

イタリア半島での戦い(第二次ポエニ戦争)

219201

537216退

202)

1[2]

第三次ポエニ戦争[編集]

紀元前149年から紀元前146年にあった戦争で反カルタゴ派であったカト・ケンソリウス(大カト)の往年の主張が通りスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)をしてカルタゴを滅亡させた。カルタゴとヌミディアとの紛争を条約違反と咎めたローマはカルタゴに対し内陸への遷都を要求、これを拒否したカルタゴを攻囲し、破壊した。ローマ軍は住民のほとんどを殺すか奴隷にした。さらにローマ人のカルタゴへの敵意は凄まじく土地を塩で埋め尽くし、不毛の土地にしようと試みたとされるが[3]塩土化については後世の創作である[4]

ポエニ戦争がもたらしたもの[編集]




西




脚注[編集]

  1. ^ 飛鳥大悟 (2011). クラブ・シルバ- 〈2〉 占領下の日本篇. レゼトワール出版. p. 211. ISBN 9784990472740 
  2. ^ あるいは思索に夢中で声をかけた兵士を無視したため、またはマルケッルスへの連行を拒否したために兵士に殺されたとも、金目のものと見た製図機器を奪おうとした兵士との諍いで殺されたともいう。
  3. ^ 世界遺産アカデミー世界遺産検定事務局 (2009). 世界遺産検定公式テキスト〈1〉人類と四大文明が誕生した大地. 毎日コミュニケーションズ. p. 210. ISBN 9784839929824 
  4. ^ Ridley, pp. 140–146.

参考文献[編集]

  • Ronald Ridley (1986). “To Be Taken with a Pinch of Salt: The Destruction of Carthage”. Classical Philology (The University of Chicago Press) 81 (2): 140–146. doi:10.1086/366973. JSTOR 269786. 
  • ベルナール・コンベ=ファルヌー著、石川勝二訳『ポエニ戦争』白水社、文庫クセジュ
  • 長谷川博隆『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』講談社、講談社学術文庫
  • エイドリアン・ゴールズワーシー著、ジョン・キーガン監修、遠藤利国訳『図説 古代ローマの戦い』東洋書林
  • 松谷健二『カルタゴ興亡史』中央公論社、中公文庫
  • アラン・ロイド著、木本彰子訳 『カルタゴ 古代貿易大国の滅亡』河出書房新社
  • ニック・セカンダ著、鈴木渓訳『共和政ローマの軍隊 地中海の覇者200BC-104BC』新紀元社、オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ
  • テレンス・ワイズ著、桑原透訳『カルタゴ戦争 ポエニ戦争の軍隊265BC-146BC』新紀元社、オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ
  • ジョン・プレヴァス著、村上温夫訳 『ハンニバルアルプス越えの謎を解く』白水社
  • 塚原富衛『ローマ・カルタゴ百年戦争』学研、学研M文庫

外部リンク[編集]