レプニン家
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レプニン家︵Репнин / Repnin︶は、リューリク朝の流れをくむ由緒ある公︵クニャージ︶の家系。家名は一族の始祖イヴァン・ミハイロヴィチ・オボレンスキー公︵1523年没︶の、﹁まずいお粥﹂を意味する綽名﹁レプーニャ﹂に由来する。本家筋のオボレンスキー家と同じく、1246年にモンゴル帝国によって殺害されたキエフ大公ミハイル・チェルニゴフスキーの子孫である。
輩出した人物
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同家に属する人物は全て﹁prince﹂に相当する﹁公(Князь / knyaz)﹂ないし﹁公女(княжна / knyaginya)﹂の称号を以て称されるが、ここでは略する。
●エレナ・ミハイロヴナ・レプニナ…夫のヴァシーリー・シュイスキーが1606年にツァーリに選出されたため、皇妃︵ツァリーツァ︶となった。しかし翌1607年、夫は彼女と離婚して若い女性と再婚した。
●ボリス・アレクサンドロヴィチ・レプニン…1639年以降、大貴族として多くの官房︵プリカース︶の長官を務めた。さらにアストラハン︵1643年-1646年︶とスモレンスク︵1656年-1659年︶で都市長官を務め、ツァーリの不在時には頻繁に貴族会議の議長役を代行していた。1670年5月17日にモスクワで没した。
●アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン︵1668年‐1726年︶…ボリスの孫。大北方戦争に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。
●ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン︵1696年‐1748年︶…アニキータの子。ピョートル3世の傅育官で陸軍士官学校校長。オーストリア継承戦争の軍総司令官を務め、アーヘンの和約成立に尽力したが、その帰途で没した。
●ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン︵1734年‐1801年︶…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使としてロシア帝国によるポーランドへの内政干渉を強化させ、対トルコ戦争でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、アレクサンドル1世の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と紋章を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に詩人イヴァン・プーニンがいる。