上方柳次・柳太
上方 柳次・柳太︵かみがた りゅうじ・りゅうた︶は、日本の昭和時代に活動した漫才コンビ。同時期にデビューした﹁はんけん﹂こと若井はんじ・けんじに対し、﹁柳柳﹂の略称で呼ばれて人気を博した。
メンバー[編集]
●上方 柳次︵かみがた りゅうじ、1931年︵昭和6年︶4月28日 - 1999年10月10日︵68歳没︶[1]︶ ツッコミ担当。本名‥沢田 敏治[1]。徳島県出身[1]︵大阪市東横堀生まれとも︶。喜劇の2代目博多淡海に入門。淡海が一座を解散した1949年︵昭和24年︶ごろ、三遊亭柳枝の柳枝劇団に入団し、沢田二郎[1]を名乗る。 柳太に先立たれた後も相方を変え、長年にわたって活動を続けた。肝硬変で死去。 ●上方 柳太︵かみがた りゅうた、 1930年︵昭和5年︶[2] - 1979年︵昭和54年︶3月24日[3]︶ ボケ担当。本名‥福井 靖益。三重県伊賀上野出身。団員だった実兄を頼って柳枝劇団に入団[3]、河合金児を名乗る。 額が広く、﹁デボチン[2]の柳太﹂の愛称で呼ばれた。肺がんで死去。コンビ経歴[編集]
柳太がはじめ実兄にコンビの結成を持ちかけるも断念。その後、柳太の兄が劇団の地方巡業で大阪を留守にしている間に、柳次が柳太を誘い、コンビ結成。1957年︵昭和32年︶[2]、京都の富貴席でデビュー。新花月、神戸松竹座などをホームグラウンドにした。 NHKテレビの人気番組﹃お笑い三人組﹄に対抗して、神戸松竹座などで初代森乃福郎と3人で﹁大阪爆笑三人組[1]﹂という喜劇を上演した。 柳太の死去後、柳次は1979年8月より若井けんじとコンビを結成する[1]も、けんじの東大阪市会議員選挙への出馬のため解散。 1981年︵昭和56年︶からは妻の上方一枝︵東京出身。1928年11月1日生まれ。あした順子・ひろしの順子の姉[4]。戦前は玉川スミと音曲漫才をやっていた︶と組み、道頓堀角座、浪花座に出演。1998年頃まで舞台に立った。当時は松竹芸能所属。[5]弟子[編集]
弟子には上方よしお[2]、中田カウス︵中田アップ門下に移籍︶らがいる。受賞歴[編集]
ギャグ[編集]
- 「いやぁ~、会いたかったよォ~[2]」 - 柳次のギャグ。オール阪神・巨人の阪神に引き継がれた。
- 「よう来たなぁ」[5]
- 「そんなこと言いなや、今さら」
- 「しゃぁさかい、まかせなさ~い」[2]
- 「びびんちょ」
- 「~しゃんな」[5]
レコード[編集]
- 当代サラリーマン節/まってて小唄(東芝レコード)
メディア出演[編集]
- 映画
- 吹けば飛ぶよな男だが(1968年)
- 演芸放送番組
- テレビドラマ
- 素浪人 月影兵庫 第2シリーズ 第10話「空家に花が咲いていた」(1967年)※・柳太のみ
- 道頓堀(1968年)
- 野次馬がいく 第24話「頑張れ!おたずね者」(1968年)
- すいーとぽてと 第4話(1971年)