若井はんじ・けんじ
若井 はんじ・けんじ︵わかい はんじ・けんじ︶は、日本の兄弟漫才コンビ。昭和時代の高度経済成長期に活動した。略称は﹁はんけん﹂。同世代の﹁柳柳﹂こと上方柳次・柳太としのぎを削った。
メンバー[編集]
●若井 はんじ︵わかい はんじ、1933年 - 1976年2月6日[1]︶ 兄。本名‥若井 輝雄︵わかい てるお︶[1]。ボケ担当。愛称は﹁はんちゃん﹂。 漫才師だった両親の巡業先の京都富貴席の楽屋で生まれる。子供のころからトランペット、ドラムといった楽器演奏をはじめとしたあらゆる芸を仕込まれた。1946年、12歳の時に﹁荒川照坊﹂の名で両親とトリオを組み[2]、巡業先の愛知県半田市で初舞台。翌年、父親がメチルアルコールの多量摂取で死去したため、母子のコンビとなる。 短期間弟と漫才コンビを組んだのち、2代目大江美智子率いる名古屋市の女剣劇一座﹁大美劇団﹂に座長として入団。 はんじ・けんじとして活動中の1975年に胃癌のため入院。一時快方に向かうが、同年12月に再入院し、翌年死去。癌であることは本人に知らされないままだった[3]。 ●若井 けんじ︵わかい けんじ、1935年4月18日 - 1987年11月26日︵52歳没︶[4]︶ 弟。本名‥若井 修身︵わかい おさみ︶[4]。ツッコミ担当。愛称は﹁けんちゃん﹂。 両親の巡業先の愛知県で生まれる。幼いころの病気で鼓膜が破れ右耳が全く聞こえなかった[5]。 短期間兄と漫才コンビを組んだのち、はんじ・けんじ結成までは芸人を休業。 はんじに先立たれたのち、同様に相方を病で失っていた上方柳次とコンビを結成するが、解散[2]。その後はファンの仲介で天王寺のスナックのマスター[3]となったり、シャッター製造会社を設立したりするなどしたのち、1983年9月に東大阪市議選に出馬し、初当選。民社党会派に所属[4]。2期目を目指した1987年9月[4]には、膝を悪くした影響で選挙活動が思うように行なえず、また定数削減のあおりを受け次点で落選[3]し、芸能界に復帰。漫談をしていた[2]が、同年自動車事故[3][6]のため死去。コンビ略歴[編集]
1948年[2]、名古屋市の寄席において、﹁荒川福児・笑児﹂の名で兄弟初舞台を踏む︵のちのはんじが福児、けんじが笑児[4]︶。はんじと舞台に立っていた千夜子はこのとき裏方に回る。幼少期に長く名古屋を拠点としていた影響で、後年まで名古屋なまりが残った[3]。やがて旅回りの浪曲師・宮川右近の紹介で北海道を拠点とするが、右近がギャラを持って失踪する。 ブランクの末、ふたりは音楽ショウののらくろショウの紹介で帰阪し、籠寅興行のもとで活動を再開させる。漫才のかたわら軽演劇団で活動していたが、公演の移動中、新世界で暴力団とタクシーの乗降をめぐるトラブルが起き、はんじが胸を刺されて負傷する。これが原因となり、劇団は解散する。 はんじは失意のあまり、酒を暴飲する日々を過ごす。その様子を見た漫才作家秋田實が、ふたりの再起を図り、上方演芸︵のちの松竹芸能︶にスカウトする。 1957年に﹁福児・笑児﹂として新花月に出演[4]。1959年に﹁デイト チック・ヤング﹂と改名︵のちのはんじがチック、けんじがヤング[4]︶。1960年10月に﹁若井はんじ・けんじ﹂と改名し、道頓堀角座で披露興行を行った[2]。1964年から1973年にかけ、MBSテレビ﹃ダイビングクイズ﹄の司会を務め、人気を博した[2]。1968年よりケーエープロダクションに在籍。受賞歴[編集]
●1966年 第1回上方漫才大賞 新人賞[1] ●2011年 第15回上方演芸の殿堂入り[2]家族・親族[編集]
●ふたりの祖父は荒川千成門下の初代荒川ラジオ。 ●両親は同門の荒川久丸・千夜子[1][2]。 ●はんじの妻は﹁大美劇団﹂で女同士の漫才をやっていた元座長。はんじ・けんじが売れ始めたころに引退。後に離婚。 ●けんじの最初の妻は、はんじ・けんじの両親と親交があった元芸人の興行師・河内家目玉の次女・加茂川ちどり。結婚後すぐにけんじの浮気が原因で離婚。けんじはその後、電気店の娘と再婚。村山実が仲人を務めた[3]。弟子[編集]
直弟子 ●若井ろくじ・はちじ[7] ●若井ぼん・はやと ●若井小づえ・みどり ●若井チック・ヤング ●若井けいじ・えいじ 孫弟子 ●ぼん・はやとのぼんの弟子 ●ミッサン ●ぼん・はやとのはやとの弟子 ●ホープユタカ ●山田雅人 ●森脇健児 ●若井りき・ゆうき ●黒井博之 ●宮崎げんき ●大阪キッズ ●若井やるき・たまる ●若井ひでと ●竹井輝彦︵ビッグブラザーズ︶ ●小づえ・みどりの小づえの弟子 ●若井のん・のこ ●小づえ・みどりのみどりの弟子 ●若井気合・こころ ●豊間若葉 ●けいじ・えいじのけいじの弟子 ●若井めがね・かめら ●若井しもべ芸風・ギャグ[編集]
テンポの早いやりとり[1]で知られ、はんじの﹁頭の先までピーコピコ[1][6]﹂や﹁ゴメ〜ンネ[6]﹂といったギャグが流行語となった。 もともと﹁頭の先までピーコピコ﹂は、はんじの口癖であった。永六輔がこれに注目し、彼らのために自身初めての漫才台本を書いた際、つかみネタに入れた。これが舞台でウケたので、その後ギャグとして定着した。1970年代の大阪を舞台にした映画﹃岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS﹄︵1996年︶の作中、岡村隆史が演じる小鉄がこのギャグを言うシーンがある。出演[編集]
テレビ[編集]
- ドラマ
ラジオ[編集]
- そらゆけ電話と歌謡曲 テレフォンクイズ(朝日放送ラジオ)
- はんじ・けんじのニュース法廷(ラジオ大阪)
- 東海ラジオショーナイター(東海ラジオ)
映画[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e f 『若井 はんじ』 - コトバンク 典拠は日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』(2004年)および同『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(2010年)
- ^ a b c d e f g h 第15回上方演芸の殿堂入り(平成23年度) 大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)
- ^ a b c d e f 足立克己『いいたい放題 上方漫才史』(東方出版 1994年)pp.53-61。けんじの最初の妻について同資料は「加茂川かもめ」としている
- ^ a b c d e f g 『若井 けんじ』 - コトバンク 典拠は上に同じ。
- ^ ABCラジオ『もうすぐ夜明けABC』2009年11月13日深夜放送分「ミッドナイト寄席」コーナーで弟子の若井みどりが語った。
- ^ a b c 相羽秋夫『上方漫才入門』(弘文出版、1995年)p.118
- ^ 幻の漫才コンビ「若井ろくじはちじ」