上條謹一郎
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上條 謹一郎︵かみじょう きんいちろう、安政元年11月28日︵1855年1月16日︶ - 明治43年︵1910年︶9月19日︶は、日本の政治家。
経歴[編集]
信濃国筑摩郡南新村︵現長野県松本市︶に、代々松本藩主戸田氏の御殿医︵眼科︶を務めた庄屋の長男として生まれ、漢学を武居用拙に学んだ。1875年上京して小石川同人社や学農社で英語や農学を修め、1879年帰郷した。 1889年町村制施行により東筑摩郡新村の初代村長となる。その後は郡会議員、長野県会議員を経て、1898年第5回衆議院議員総選挙に初当選、衆議院議員︵立憲政友会︶を2期務めた。 1899年には信濃民報社創設に尽力し、新村銀行を創設。1907年長野農工銀行取締役に就任した。 長男の上條信も衆議院議員となり、筑摩鉄道︵現・アルピコ交通︶を創設。弟の上條慎蔵は内務官僚となり、山田顕義の日本法律学校創立に参画した[1]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『日本人物情報大系 第24巻』「衆議院議員列伝」
- 『日本人物情報大系 第30巻』「衆議院議員名鑑」