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●東洋史学者の父の影響をうけて漢詩を愛唱し、中国大陸の風物に興味をもって、華北や華南について独特の雰囲気の地誌を書いていた。﹃地理科学﹄第1号︵1961︶の﹁華南風物詩﹂はその代表作であり、その中で詩を﹁実情を適切に吐露する﹂ものとして評価している。亡くなる10年ほど前には、中国の文献・地図の収集に力を入れ、中国名勝旧跡事典を全巻購入し、地名を地図と対比するほどの中国通であった。
●東京と明治大学をこよなく愛していた。1年に一度訪れた大矢雅彦によく明治大学の地理学教室の現状を聞いていた。
●大矢 (1995)によれば、亡くなる半年ほど前に少し入院したこと以外は、入院の話は聞いたことがないという。講義では﹁人間は長生きした人が一番偉い﹂と述べ、自身の健康に気を配った上で、高等師範学校の自然地理の講義を一回も休講しなかった。ある日、下村が15分程遅れてきた時、学生は勝手に休講として一勢に逃げ出してしまい、運悪く週番をして逃げ遅れた大矢は下村につかまってしまい、学生全員を連れ戻す役をさせられたという。
●野外巡検など、どこへ行くのも徒歩が多かった。戦時中、鳴門海峡へ訪れた際は、馬車で向かっていた学生よりも先に到着し、学生らに対して﹁あなた方は一体何をしていたのですか﹂と述べている。
●太平洋戦争下で、教員や学生が右傾化するなか、下村は自若として落ち着いて教育に従事していた。運動場へ集合など号令がかかった時も、すりへった下駄の上にゲートルを半分位まいて一番あとから出てきたという。
●大矢 (1995)によれば、服装にまったく無頓着で、広島大学でもネクタイをしている姿をみたことがないという。妻によると、亡くなるまで自分でネクタイはしめられなかった。早稲田大学で学会が開かれた際、守衛の代わりに立っていた学生が、無頓着な服装だった下村と辻村に対して﹁今日は学会ですけど﹂といって入校を断ろうとしたが、偶然、竹内常行がそこを通り、招き入れたエピソードもある。
●家庭では一切仕事の話をしなかった。子供の教育にも一切口を出さず、成績表を机の上においても見なかったという。また、外食で体調を崩した経験から妻が作った食事以外は一切口にしなかったという。妻によれば、なかなかのガンコ親爺で人に有難うということは言わなかったが、亡くなる30分前には周囲に有難うといい、大変嬉しそうな顔をして亡くなったという。最後に妻綾子に手渡したメモ書きには﹁しるこ﹂と書かれていた。。
(一)^ フェンネマン︵M.N.Fenneman︶の地形区分法に準拠し、断層構造をもとに行った。その際、山崎直方・佐藤伝蔵・小川琢治・辻村太郎らの論も参考にしている。
(二)^ クロフォード︵C.Crawford︶とマクドナルド︵P.McDonald︶共著﹃地理教授の現代的方法﹄︵1929年︶も参考にしている。
(三)^ 第一講座は米倉二郎が担当している。
参考文献[編集]
●大矢雅彦﹁下村彦一先生を偲んで﹂﹃地理学評論﹄第68巻第8号、1995年、501-502頁。
●岡田俊裕﹃日本地理学人物事典 近代編2﹄原書房、2013年。
●中田高﹁下村彦一先生の逝去を悼む﹂﹃地理科学﹄第50巻第3号、1995年、1-2頁。