中野直枝
中野 直枝︵なかの なおえ、1868年3月9日︵慶応4年2月16日︶ - 1960年7月6日[1]︶は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴[編集]
高知県出身。中野重儀の長男として生まれる。海南学校、暁星中学を経て、1889年4月、海軍兵学校︵15期︶を卒業し、1890年7月に海軍少尉任官。海軍大学校将校科︵3期︶で学び、﹁松島﹂航海長、海兵教官、常備艦隊参謀などを経て、1901年5月、海大将校科甲種︵2期︶を卒業した。 軍令部第2局員、﹁鹿島﹂回航委員︵イギリス出張︶、﹁鹿島﹂航海長、﹁香取﹂副長、﹁鳥海﹂・水雷母艦﹁韓崎﹂・﹁秋津洲﹂・﹁八雲﹂の各艦長、﹁鞍馬﹂艤装員長、海軍省軍務局員、艦政本部艤装員、﹁金剛﹂艦長兼艤装員︵イギリス出張︶などを歴任し、1912年12月、海軍少将に進級。 呉鎮守府参謀長、艦政本部第1部長、海軍省艦政部長、艦政局長などを経て、1917年12月に海軍中将となった。練習艦隊司令官、将官会議議員、呉工廠長、旅順要港部司令官、第2戦隊司令官、第3艦隊司令長官、第2艦隊司令長官、将官会議議員などを経て、1923年12月に待命となり、翌年2月、予備役に編入された。 1910年に発生した第六潜水艇の事故で、殉職した艇長佐久間大尉の遺書中、末尾の﹁中野大佐、十二時四十分ナリ﹂とあるのは当時﹁韓崎﹂艦長であった中野直枝のことである。1924年から1943年まで、帝国在郷軍人会副会長を勤めた。栄典[編集]
- 位階
- 1891年(明治24年)12月14日 - 正八位[2]
- 1894年(明治27年)12月28日 - 従七位[3]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[4]
- 1904年(明治37年)8月30日 - 正六位[5]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 従五位[6]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 正五位[7]
- 1917年(大正6年)12月28日 - 従四位[8]
- 1922年(大正11年)8月10日 - 正四位[9]
- 1924年(大正13年)3月24日 - 従三位[10]
- 勲章等
親族[編集]
脚注[編集]
(一)^ ﹃中野直枝﹄ - コトバンク
(二)^ ﹃官報﹄第2539号﹁叙任及辞令﹂明治24年12月15日
(三)^ ﹃官報﹄第3453号﹁叙任及辞令﹂1895年1月4日。
(四)^ ﹃官報﹄第4402号﹁叙任及辞令﹂1898年3月9日。
(五)^ ﹃官報﹄第6355号﹁叙任及辞令﹂1904年9月3日。
(六)^ ﹃官報﹄第7640号﹁叙任及辞令﹂1908年12月12日。
(七)^ ﹃官報﹄第451号﹁叙任及辞令﹂1914年1月31日。
(八)^ ﹃官報﹄第1624号﹁叙任及辞令﹂1917年12月29日。
(九)^ ﹃官報﹄第3009号﹁叙任及辞令﹂1922年8月11日。
(十)^ ﹃官報﹄第3483号﹁叙任及辞令﹂1924年4月7日。
(11)^ ﹃官報﹄第1190号﹁叙任及辞令﹂1916年7月19日。