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中央大通船場地区貫通の記
エピソード[編集]
●大阪市長在任中に、大阪港の防潮堤新築工事を国に陳情しようと当時の大蔵大臣だった田中角栄と会談した時、田中角榮から﹁大阪港の防潮堤工事は大蔵省が費用を出して国の責任でやろう。しかしその代わり、大阪市内の路面電車︵大阪市電︶を廃止してもらいたい。社会党系の市長のあんたが﹃大阪の路面電車を廃止します﹄と言えば、東京の自民党や︵東京都の︶労働組合も︵東京都電の廃止に︶反対しないんだ。是非お願いしたい﹂と言われた逸話がある[2]。
●大阪市の市域拡張を主張しており、1963年には大阪市会決算特別委員会で﹁最終的には現在の府下全部を最終的に大阪市域にするのが好ましい﹂と述べていた[3]。
●1923年、関東大震災発生当時︵早稲田大学在学中であった︶、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれて下富坂警察署に連行され、﹁死を覚悟﹂する程の暴行を受けたという[4]。
●墓は豊中市の服部霊園にあり、墓地使用料と管理料は大阪市が負担していたが、2006年になり大阪市議会の要求で撤去を迫られ、現在、広大な跡地は市民の霊園として利用されている。
- ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、279頁。
- ^ 早坂茂三:「早坂茂三の『田中角榮』回想録」85-86頁 小学館 1987年
- ^ 【大阪W選】「2つの大阪」100年論争の結末は? 27日に投開票 産経新聞 2011年11月26日
- ^ 中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会(1972年)、p.563
全国市長会会長(第13代:1970年-1971年) |
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官選 |
- 田村太兵衛1898.10.12-1901.8.10
- 鶴原定吉1901.8.31-1905.7.20
- 山下重威1905.12.11-1909.12.20
- 植村俊平1910.8.8-1912.7.25
- 肝付兼行1913.1.17-1913.8.1
- 池上四郎1913.10.15-1923.11.9
- 關一1923.11.30-1935.1.26
- 加々美武夫1935.2.12-1936.7.20
- 坂間棟治1936.7.20-1945.8.23
- 中井光次1945.9.8-1946.12.13
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公選 |
- 近藤博夫1947.4.7-1951.4.4
- 中井光次1951.4.25-1963.3.23
- 中馬馨1963.4.19-1971.11.8
- 大島靖1971.12.20-1987.12.18
- 西尾正也1987.12.19-1995.12.18
- 磯村隆文1995.12.19-2003.12.18
- 關淳一2003.12.19-2007.12.18
- 平松邦夫2007.12.19-2011.12.18
- 橋下徹2011.12.19-2015.12.18
- 吉村洋文2015.12.19-2019.3.21
- 松井一郎2019.4.8-2023.4.7
- 横山英幸2023.4.10-
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