植村俊平
植村 俊平︵うえむら しゅんぺい、1863年11月29日 (文久3年10月19日[1]) - 1941年︵昭和16年︶11月19日[1]︶は、日本の政治家。大阪市長。
来歴・人物[編集]
山口県士族・植村島之丞の二男として生まれる[2]。成立学舎などを経て、大学予備門、1886年︵明治19年︶7月東京大学法学部首席卒業。翌年には助教授。イギリスに留学し、法廷弁護士の称号を得て帰国[2]。1892年︵明治25年︶、代言人︵弁護士︶に。英吉利法律学校︵のちの中央大学︶などで講義する。その後、日本銀行文書局長時代には、日本銀行幹部ストライキ事件に連座して免職させられた[3]。このストライキで中上川彦次郎も介入したため、中上川と対立して三井を辞めていた岩下清周︵三井銀行大阪支店長、慶應・一橋中退、三菱商業学校出身︶が、東大出身の日銀幹部らを住友本店に呼び寄せたとされ、植村もその斡旋で住友入りした[4]。住友では支配役に、1902年に九州鉄道会社支配人となり、その後鉄道庁理事などを歴任。 1909年︵明治42年︶12月に辞任した山下重威の次の市長の選考は難航し、辞任8ヶ月の1910年︵明治43年︶8月8日に第四代目大阪市長に就任する。 鉄道事業に関する知識に長けていたため、その得意の知識をいかし、市電の整備につくすが1912年︵明治45年︶1月に発生した﹁南の大火[5]﹂の焼け跡に市電を通すことに関し、大阪瓦斯と対立、当時の府知事が大阪瓦斯側に立ったため、同年7月25日に辞任。市民も市会も再任の要望が出たが、固辞したため、またまた市長選考が難航することになった。 1913年︵大正2年︶、大阪株式取引所理事長、1916年︵大正5年︶には王子電気軌道社長に就任した。1941年︵昭和16年︶11月19日死去。享年78。墓所は多磨霊園。 妻の多栄は岡村輝彦の妹。長男に理学士の植村琢︵妻は赤星陸治長女︶。長女は安井英二に、三女は東栄二に嫁いだ。[2]脚注[編集]
(一)^ ab﹃全国歴代知事・市長総覧﹄日外アソシエーツ、2022年、279頁。
(二)^ abc植村俊平﹃人事興信録﹄8版
(三)^ 山本達雄第5代日銀総裁と日銀幹部らとの間の些細なことで起きたストライキ。当時すでに東大など官学を中心とした学校間格差が社会制度化され、山本が慶應出身であったことが遠因だったとされている。伊藤博文の介入で植村はじめ片岡直輝、志立鉄次郎、渡辺千代三郎、町田忠治、河上謹一、ストライキの主導者である鶴原定吉など理事・局長・支店長幹部らがほぼ免職された。山本は東大出身幹部の後任に慶応閥の磯村豊太郎、生田定之らを充て、松永安左衛門も一時入行していた。さらに一般職員から用務員に至るまで慶應関係者で固めたとされている。 ﹃メガバンク学閥人脈﹄︵山口日太郎、新風舎、2006年7月︶ P234~P236
(四)^ ﹃メガバンク学閥人脈﹄︵山口日太郎︶ P237~P238
(五)^ ﹁南の大火﹂ないし﹁ミナミの大火﹂
参考文献[編集]
- 『大阪市の歴史』(大阪市史編纂所 1999年4月 創元社 ISBN 4422201387)