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久努国造︵くののくにみやつこ/くぬのくにのみやつこ・くのこくぞう/くぬこくぞう︶は久努国︵遠江国中部︶を支配した国造。
﹃先代旧事本紀﹄﹁国造本紀﹂に久努国造とある。
●﹃先代旧事本紀﹄﹁国造本紀﹂には物部連の祖伊香色雄命の孫印幡足尼︵いにばすくね、いなばすくね︶が仲哀天皇朝に任じられたとある。
●﹁天孫本紀﹂、﹁国造本紀﹂には伊香色雄命または十千根大連の子とされる印岐美連公は﹁志紀県主、遠江国造、久努直、佐夜直等の祖﹂とある。
久努氏︵くぬうじ、くのうじ、姓は直︶で、佐夜氏と同族とされる。
国造の本拠はのちの遠江国山名郡の久努郷で、現在の静岡県袋井市鷲巣・久野とされる[1]。近辺には国本や久野といった地名があり、久野城跡なども残る。
支配領域[編集]
久努国造の支配領域は当時久努国と呼ばれていた地域であり、後の山名郡︵袋井市︶、周智郡、佐野郡一帯を支配していたとされる。隣の佐野郡曽我を素賀国造の本拠とする説もあるが[2]、もともと山名郡は養老六年に佐益郡︵佐野郡、佐夜郡︶から8郷を割いて設置したとされ[3]、本来久努国造の領域は山名郡と佐野郡であったことになる。
赤尾渋垂郡辺神社︵あかおしぶたれこうりべじんじゃ︶か[4]。境内に印岐美命を祀る。
関連神社[編集]
●七ツ森神社︵ななつもりじんじゃ︶
袋井市国本に鎮座する神社で、久努国造を祀る。
●蔵王権現神社古墳︵ざおうごんげんじんじゃこふん︶
全長49m、高さ4mの前方後方墳。古墳時代前期︵4世紀︶の築造で、印幡足尼の墓と考えられる[5]。
●和田岡古墳群︵わだおかこふんぐん︶
各和金塚古墳︵かくわかなつかこふん︶ - 全長66mの前方後円墳で、5世紀初頭の築造とされる。
瓢塚古墳︵ひさごつかこふん︶ - 全長63mの前方後円墳で、5世紀前半の築造とされる。
行人塚古墳︵ぎょうにんつかこふん︶ - 全長43mの前方後円墳で、築造時期は4世紀とも5世紀ともされる。
吉岡大塚古墳︵よしおかおおつかこふん︶ - 全長55mの前方後円墳で、5世紀中期の築造とされる。
参考文献[編集]
- ^ 下中真人「山名郡」『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』平凡社、2000年。
- ^ 下中真人「佐野郡」『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』平凡社、2000年。
- ^ 菅野真道等「養老六年二月十六日条」『続日本紀』、797年。
- ^ 宝賀寿男「久野氏・原氏の一族」『古樹紀之房間』、2002年。
- ^ 宝賀寿男「沼津の高尾山古墳の保存問題」『古樹紀之房間』、2015年。
関連項目[編集]