二世西川鯉三郎
二世西川鯉三郎︵にせい にしかわ こいさぶろう、1909年12月27日 - 1983年7月31日︶は、東京府出身の日本舞踊家。名古屋西川流二世家元。本名は近藤茂、旧姓は星合茂。西川幾の弟子・西川石松の孫娘司津の婿養子となって二代目西川鯉三郎を襲名し、名古屋をどりを始めた。
名古屋西川流の流祖・初世西川鯉三郎とは無関係。
東京都新宿区に本部を置く﹁西川流®﹂︵一般財団法人 西川流︶とも無関係。
生年月日 | 1909年12月27日 |
---|---|
没年月日 | 1983年7月31日(73歳没) |
本名 | 星合茂→ 近藤茂(婿養子) |
襲名歴 | 1. 初代・尾上菊丸 2. 尾上志げる 3. 西川茂 4. 二世・西川鯉三郎 |
出身地 | 日本 東京市浅草区 |
母 | 星合とし |
妻 | 西川司津(近藤静子) |
子 | 西川左近 西川右近 |
受賞 | |
1948年第一回中日文化賞、愛知県文化賞 1954年名古屋演劇ペンクラブ賞 1965年毎日芸術賞、舞踊ペンクラブ賞 1966年NHK放送文化賞 1969年紫綬褒章、名古屋市功労賞 1970年菊池寛賞 | |
来歴[編集]
1909年12月27日、東京市浅草区︵現・東京都台東区浅草︶生まれ。1917年、6代尾上菊五郎に入門し、尾上菊丸のちに尾上志げると名のる。また、6代藤間勘十郎に舞踊を習う。1923年、6代尾上菊五郎出演の新歌舞伎十八番の内鏡獅子で、胡蝶に抜擢された。9代市川團十郎の長女市川翠扇から﹁胡蝶は弟子がやる役じゃない﹂と強硬に反対されたが6代尾上菊五郎が押し通して、御曹司が務める役を部屋子が演じるのは初めてで、3回務めた。1928年﹁七曜座﹂結成。1929年、6代尾上菊五郎から破門され、1933年に帰参を許された。1936年に公開された小津安二郎監督、6代尾上菊五郎主演、松竹製作の映画﹁鏡獅子﹂に、初代尾上菊之丞と一緒に胡蝶を演じた。
1936年5月28日、6代尾上菊五郎の勧めもあり、西川幾の弟子西川石松の孫娘司津の婿養子となり、西川茂を名乗る︵司津も6代尾上菊五郎に師事していた︶。1940年、2代目西川鯉三郎を襲名し、名古屋西川流二世家元となった。2代目鯉三郎は亡くなるまで周囲に﹁名古屋に行き東京に帰る﹂と漏らしていた。鯉三郎襲名と家元襲名もすんなりとは行かず、名取試験も一般受験者と同列扱、しかも当時の名古屋西川流の規則で﹁名取になっても2年間素行期間を見る﹂ということで、正式な家元襲名はだいぶ年数がたっていた。
1945年9月、名古屋をどりが始まり、﹁白鳥は来たりぬ﹂の奇抜な衣装や装置を巡り、﹁芸術か舞踊か﹂の大論争になった。1954年1月、東京の稽古場を虎ノ門から築地に移転。1955年1月﹁三都名流舞踊会﹂に出演し、6代尾上菊五郎直伝の﹁鏡獅子﹂を踊った。1962年、自宅稽古場を名古屋市中区本重町︵現在の名古屋市中区錦三丁目︶から、名古屋市瑞穂区に移転。1975年3月、第1回﹁NHK古典芸能鑑賞会﹂に出演し、常磐津﹁山姥︵山めぐり︶﹂を素踊りで踊った。1979年9月、第33回名古屋をどりで十八番の清元﹁隅田川﹂を務めた。1980年1月、国立劇場で喜撰を長女左近と踊った。1980年9月、第34回名古屋をどりで大和楽﹁三十石の夜舟﹂で素踊りを踊ったのが最後の舞台となった。1983年7月31日、順天堂病院でパーキンソン病により死去。享年73。