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五紀暦

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使

762478322

7813618285838614使使[1][2]4863

脚注[編集]

  1. ^ 天応の改元検討から宣明暦改暦までに2回遣唐使が派遣されており、五紀暦が廃された情報は知られていた可能性が高いものの、新暦(宣明暦)の暦法理論が入ったのはこの時が初めてであったとみられる。実際、承和の遣唐使の際に新暦を学ばせる予定であった留学生が逃亡して結果的に佐渡への流刑になっていることが『続日本後紀』承和6年3月16日条に記されているからである(湯浅吉美 2015, p. 186)。
  2. ^ 湯浅吉美は藤原良房が孫である清和天皇即位直後の貞観2年(860年)に朔旦冬至が来るように暦法に反する修正を命じた(『日本三代実録』貞観2年閏10月23日・25日条)ことに真野麻呂が憤慨して、強引な修正で朔や節気が破綻したことを理由に折しも渤海使がもたらした新暦(宣明暦)への改暦を迫り良房もこれを受け入れざるを得なかったと推測している。

参考文献[編集]

  • 細井浩志『古代の天文異変と史書』吉川弘文館、2007年9月。ISBN 978-4-642-02462-4 
  • 湯浅吉美「五紀暦併用と宣明暦採用に関する一考察」『法制と社会の古代史』慶應義塾大学出版会、2015年5月。ISBN 978-4-7664-2230-6