佐々木駒之助
佐々木 駒之助︵ささき こまのすけ、1873年︵明治6年︶7月6日[1][2] - 1954年︵昭和29年︶6月2日[1][3]︶は、大正から昭和前期の実業家、政治家。東洋拓殖総裁、貴族院勅選議員。
経歴[編集]
秋田県仙北郡花館村︵大曲市花館[1]を経て現大仙市︶で、佐々木多右衛門の三男として生まれ[1][2]、1885年︵明治18年︶6月、叔父・佐々木福蔵の養子となる[1][2]。秋田中学校︵現秋田県立秋田高等学校︶を経て[1]、1899年︵明治32年︶慶應義塾大学理財科を卒業した[1][3]。 福澤諭吉の紹介で堺市の会社に就職[1]。その後、1900年︵明治33年︶山口銀行に入行し[1][3]、理事兼営業部長、常務取締役などを歴任[2][3]。三和銀行の創設に尽力した[1]。その他、山口合資会社理事長、日本生命保険会長、共同火災保険会長、トヨタ自動車工業監査役、財団法人東亜研究所評議員、南洋協会評議員などを務めた[3]。1919年︵大正8年︶、1938年︵昭和13年︶に金融及び経済状況視察のため欧米に出張した[3]。1939年︵昭和14年︶東洋拓殖総裁に就任した[1]。 1945年︵昭和20年︶2月24日に貴族院議員に勅選され[1][4]、同和会に所属して活動し、1946年︵昭和21年︶4月1日に辞職した[5]。 その後、公職追放となり[1][6]、1954年6月、兵庫県伊丹市で死去した[1]。脚注[編集]
参考文献[編集]
●人事興信所編﹃人事興信録 第4版﹄人事興信所、1915年。 ●﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄1990年。 ●﹃秋田人名大事典︵第二版︶﹄秋田魁新報社、2000年。
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