佐藤清 (衆議院議員)
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佐藤 清︵さとう きよし、1853年1月4日︵嘉永5年11月25日[1][注釈 1]︶ - 1919年︵大正8年︶1月12日[1][2][3]︶は、明治期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員、宮城県伊具郡大張村長。号・滄浪漁長[3]。
経歴[編集]
陸奥国伊具郡大蔵村︵宮城県[2]伊具郡大張村[4][5]大蔵[1][3]を経て現丸森町[6]︶で、仙台藩士・佐藤徳治清繁の長男として生まれる[1]。藩校・養賢堂で学んだ[1][4][6][7]。 1872年︵明治5年︶東京に遊学[4]。﹃問答新聞﹄、﹃福島新聞﹄、﹃福島毎日﹄、﹃福島日々﹄、﹃福島自由﹄などで記者として務め[2][4]、自由民権運動を推進した[1][4][6][7]。1882年︵明治15年︶福島事件に連座し投獄されたが[1][3][4][6][7]、翌年、高等法院で免訴となり帰郷した[4]。蚕業の振興を図り蚕糸業組合を組織した[4]。1888年︵明治21年︶仙台で発刊の日刊新聞﹃民報﹄の主幹に就任[2][4]。1892年︵明治25年︶仙台で﹃自由新聞﹄を発行し自由党宮城支部幹事となる[4]。1897年︵明治30年︶5月、自由党を退会して東北同盟会を組織して幹事に就任[4]。同年10月から自由党、進歩党の合同に尽力し、1898年︵明治31年︶に憲政党が設立され同党宮城支部幹事となった[4]。 1884年︵明治17年︶大張村会議員に就任[1][2][4][5]。1892年8月、宮城県会議員に選出され1894年︵明治27年︶7月まで在任[1][2][3][4][5][6][7]。同年、伊具郡会議員となり、1895年︵明治28年︶大張村長に就任[1][2][4][5][6][7]。1898年︵明治31年︶3月の第5回衆議院議員総選挙︵宮城県第2区、東北同盟会︶に立候補したが次点で落選[8]。同年8月の第6回総選挙︵宮城県第2区、憲政本党︶で当選し[1][4][6][7][8]、衆議院議員に1期在任した[2]。その後、1903年︵明治37年︶3月の第8回総選挙︵宮城県郡部、 立憲政友会︶に立候補したが落選した[9]。 晩年は北海道に移り牧場経営を行った[1][6][7]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『衆議院議員列伝』487頁では11月29日。