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余 漢謀︵よ かんぼう︶は中華民国の軍人。粤軍︵広東軍︶出身の軍人で、国民革命軍に属した。字は幄奇。
粤軍での台頭[編集]
広東陸軍小学第5期、武昌陸軍第2予備学校で学ぶ。1916年︵民国5年︶、中華革命党に加入した。1919年︵民国8年︶春、保定陸軍軍官学校第6期歩兵科を卒業した。当初は北京政府軍に加入したものの、翌1920年︵民国9年︶に南下して粤軍に転じ、第1師に所属している。
1925年︵民国14年︶、国民革命軍第4軍第11師第31団団長に任ぜられる。翌年、高雷警備司令も兼任した。1927年︵民国16年︶、第11師副師長に昇進し、1928年︵民国17年︶春には同師師長となっている。1929年︵民国18年︶春、広東編遣区第1旅旅長となり、同年夏には第59師師長に昇格した。この間に、蔣桂戦争を蔣介石派として戦っている。
1931年︵民国20年︶、胡漢民軟禁に端を発して、反蔣の西南派が広州国民政府を組織する。余漢謀も西南派に加わり、陸軍第1軍軍長に任ぜられた。同年12月、満州事変勃発を受けての大同団結により、南京・広州の両派は再合同し、余は中国国民党第4期中央執行委員に選出された︵後の第5期、第6期でも同様︶。翌1932年︵民国21年︶1月、国民党中央執行委員会西南執行部委員に任ぜられたほか、同年中に贛粤閩辺区第1路軍司令官に任ぜられ、紅軍掃討に従事する。翌年以降、陸軍第1軍軍政訓処主任や駐贛第6綏靖主任を兼ねた。
日中戦争と晩年[編集]
余漢謀は西南派の蜂起以降、広東の実質的な支配者である陳済棠に従属していた。しかし1936年︵民国25年︶6月に陳が反蔣の両広事変を発動すると、余や李漢魂はこれに追従せず、蔣介石に味方して陳を下野に追い込んでいる。同年9月、余は陸軍上将銜を授与され、10月、第4路軍総司令を兼ねた。
1937年︵民国26年︶、日中戦争が勃発すると、余漢謀は第4戦区副司令長官に任命された。翌年1月、第12集団軍総司令を兼任する。この頃は、広東省政府主席兼第35集団軍総司令をつとめていた李漢魂とよく連携し、日本軍相手に善戦している。1940年︵民国29年︶、第7戦区司令長官に昇進した。
日中戦争終結後の1946年︵民国35年︶6月に陸軍二級上将に昇進し、1948年︵民国37年︶5月、陸軍総司令に就任し、翌1949年︵民国38年︶からは、広州綏靖公署主任、華南軍政長官、海南特区行政長官公署副長官などを歴任して、薛岳とともに国共内戦で中国人民解放軍に抵抗した。しかし最後は海南島を失陥し、1950年︵民国39年︶5月、台湾へ逃れている。台湾では、第8期から第12期まで国民党中央評議委員をつとめ、1965年︵民国54年︶9月に、陸軍一級上将に昇進している。
1981年︵民国70年︶12月27日、台北市にて死去。享年85。