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●父‥加藤泰義︵1629-1668︶
●母‥奈辺 - 太田資宗の娘
●正室‥左牟 - 脇坂安政の次女
●継室‥以津 - 奈阿姫、酒井忠清の七女
●生母不明の子女
●次男‥加藤泰統︵1689-1727︶
●六男‥加藤泰都︵1706-1782︶ - 旗本加藤泰茂の養子
●七男‥加藤泰広
●女子‥板倉昌信正室 - のち喜連川茂氏継室
●女子‥徳大寺実憲室
その他[編集]
●松の廊下刃傷事件で浅野長矩が刃傷に及ぶ前、泰恒や出羽新庄藩主の戸沢正庸が日光社参・東照宮法会の際に受けた吉良義央からのいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよ、と諭したという話が﹃冷光君御伝記﹄や﹃赤穂義人録﹄などに記されている。
●しかし、正庸が藩主になるのは宝永7年︵1710年︶で、家督前の世子が日光社参や饗応役を務める例は皆無である。当時の藩主・戸沢正誠は赤穂藩上屋敷の受け取りと破却を担当したが、日光社参や饗応役をした記録はない。 また、寛文3年︵1663年︶の日光法会で泰恒はわずか3歳であり、享保13年︵1728年︶の法会には既に死去している[1]。﹃冷光君御伝記﹄や﹃義人録﹄には明らかに間違っている記録や、時系列で辻褄の合わない記述もあり、信憑性がない。作者の室鳩巣について松浦静は、﹁腐れ儒者﹂、﹁笑止なる見解なり﹂と厳しく批判している[2]。
- ^ 「日光山御社参御行列書」(国公立文書館)ほか
- ^ 「甲子夜話」(続篇七)
関連項目[編集]
加藤氏 大洲藩3代藩主 (1674年 - 1715年) |
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脇坂家 |
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加藤家 |
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