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この項目では、武士について説明しています。中国大使を歴任した外交官については「吉田健三 (外交官)」をご覧ください。 |
●健三の死後、わずか11歳の茂に50万円もの莫大な遺産が残される。茂はこれを﹁吉田財閥﹂と自嘲気味に称してはいるが、やがて遺産の大半を蕩尽してしまう。莫大な遺産を一体何に蕩尽したのか、今もって不明である。
●横浜太田町に構えた本邸の表門は、小男であった健三の背丈にあわせて造られていた。政府高官や実業家などの訪問客が出入りしたが、低い門構えであるため、門内で待ち構えている健三に対して自ずとお辞儀をする羽目になったという。
●茂の幼年期の回想によれば、健三は日の出前に起床するや、家族や女中らをたたき起こして毎朝大掃除をするなど、エネルギッシュな一面をもっていたという。
●狩猟が趣味で、自ら狩猟協会を立ち上げて副会長に就任している。因みに、会長には公爵近衛篤麿を擁立している。
●大磯における初期の別荘族として知られる。国府本郷村︵現在の大磯町西小磯︶の海浜沿いの広大な地所を徐々に買い増し、約1万坪もの別荘を営んでいる。戦後、﹁大磯﹂は首相となった吉田茂の代名詞となった。
●信心深かった健三は、後年菩提寺として光明寺︵神奈川県横浜市南区所在︶を建立している。同寺の山号︵吉上山︶は健三と盟友であった上郎幸八の一字ずつと取って命名されている[2] 。
- ^ 『福井人物風土記 : ふくい百年の群像』(昭和書院、1973年)p.127
- ^ 南区の歴史発刊実行委員会『南区の歴史』1976年、378頁。