坪内八郎
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坪内 八郎︵つぼうち はちろう、1912年︿大正元年﹀12月7日[1] - 1996年︿平成8年﹀12月25日[2]︶は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員、剣道七段・達士[3]。
経歴[編集]
長崎県[2][3]出身。1940年︵昭和15年︶日本大学高等師範部修身公民科を卒業した[2][3]。 帝京商業学校︵現帝京大学中学校・高等学校︶教諭、長崎逓信講習所教官、長崎市立商業学校︵現長崎市立長崎商業高等学校︶教諭、同第二商業学校︵長崎市立長崎高等学校となり2000年閉校︶教諭などを務めた[3]。 政界では、長崎県議会議員、長崎市議会議員に選出された。1946年︵昭和21年︶4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して落選[4]。今村等の公職追放、本田英作の死去により1948年︵昭和23年︶11月に実施された第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選[3][5]。1949年︵昭和24年︶1月の第24回総選挙で再選され[6]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。この間、民主自由党婦人部副部長などを務めた[3]。以後、第25回、第26回、第28回、第30回総選挙に立候補したがいずれも落選した[7]。この間、1955年︵昭和30年︶4月の長崎市長選挙に立候補したが落選した[8]。 その他、高砂水産加工監査役、長崎県モーターボート競争会長などを務めた[3]。著作[編集]
- 『気剣体 : 剣士の心中には見物人もなければ生死もない!』日本文芸社、1973年。