増岡浩
増岡 浩 ますおか ひろし | |
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ダカールラリー2009年大会にて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1960年3月13日(64歳) |
出身地 | 埼玉県入間市 |
活動時期 | 1979年 - 2014年 |
所属 |
三菱自動車工業 ラリーアート |
過去参加シリーズ | |
1987年 - 2009年 2012年 - 2014年 |
ダカール・ラリー パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム |
選手権タイトル | |
1990年・1994年 2002年・2003年 |
ダカール・ラリーT2クラス優勝 ダカール・ラリー総合優勝 |
受賞 | |
2002年 2002年 |
彩の国スポーツ功労賞 元気な入間・生き生き功労賞 |
増岡 浩︵ますおか ひろし、1960年3月13日 - ︶は、日本のラリードライバー。埼玉県入間市出身。
三菱自動車工業のワークス・チーム﹁ラリーアート﹂に所属し、長年に渡ってラリー競技の最高峰﹃ダカール・ラリー﹄に参戦。2002年・2003年には日本人初の総合優勝2連覇を果たした[1]。
2003年ダカール・ラリー総合優勝車﹁パジェロエボリューション MPR10﹂
1979年からオフロードレースに出場し、1987年からダカール・ラリーに参戦している[2]。そして2002年と2003年大会では、篠塚建次郎以来日本人2人目の総合優勝、および日本人初の連覇を果たした。2002年には埼玉県の﹁彩の国スポーツ功労賞﹂と地元・入間市の﹁元気な入間・生き生き功労賞﹂を受賞[3][4]、﹁元気な入間・生き生き大使﹂を委嘱される[5]。
ダカール・ラリーに参戦するために体力を鍛えているため、体力の数値は同世代の平均を上回っている。視力は裸眼で1.5を記録し、動体視力も優れているという。それでもジャン=ルイ・シュレッサーの詭計により惜敗した後の2002年大会では、眼鏡をかけて2.5以上にまで強化していた[6]。
2009年をもって、三菱自動車工業がダカール・ラリーからワークス・チームの撤退を発表したことに伴い、三菱とプロ契約を結んでいた増岡の去就が注目されていたが、結局2010年4月1日付で同社商品戦略本部上級エキスパートとして採用され、三菱自動車工業の社員となった[7]。現在は同社のi-MiEVを用いたエコラン等のプロモーションを行う﹁燃費マスター﹂として活動している[8]。2013年12月の異動で広報部と開発本部技術企画部の兼任となった[9]。
2012年には3年ぶりにレースに復帰。i-MiEVエボリューションでパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにチーム監督兼ドライバーとして初参戦しEVクラスで2位という好成績をおさめた[10]。翌2013年はモーター出力や空力性能を向上させた﹁MiEVエボリューションII﹂で参戦し同クラス2位、チームメイトのグレッグ・トレーシーが3位と優勝は逃したが、2年連続の好成績でチームの存在感を示している[11]。その翌年にはさらに進化させた﹁MiEVエボリューションIII﹂を操り、9分12秒204でクラス2位︵総合3位︶を獲得した[12]。
その後は引き続き、三菱自動車工業本社の広報と開発部にて勤務している[13]。
2022年3月、タイの﹁タント・スポーツ﹂を母体とし、同年のアジアクロスカントリーラリーに出場する﹁チーム三菱ラリーアート﹂の総監督に就任することが発表された[14]。
略歴[編集]
埼玉県入間市出身・在住。埼玉県立狭山工業高等学校を卒業。1982年に三菱自動車工業傘下﹁ラリーアート﹂に入社[2]。ダカール・ラリー戦績[編集]
年時 | 順位 | 車両 | 備考 |
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1987年 | 総合29位[2] | パジェロ | 初参戦 |
1988年 | DNF[2] | パジェロ | |
1990年 | 総合10位 T2クラス優勝[15] | パジェロ | |
1991年 | 総合96位[15] | パジェロ | |
1992年 | 総合20位[15] | パジェロ | |
1993年 | DNF[15] | パジェロ | |
1994年 | 総合4位 T2クラス優勝[15] | パジェロ[注釈 1] | |
1995年 | 総合10位 T2クラス2位[15] | パジェロ | |
1996年 | 総合6位[15] | RVR(プロトタイプ) | |
1997年 | 総合4位[15] | チャレンジャー | |
1998年 | 総合4位[15] | チャレンジャー | |
1999年 | 総合6位[15] | チャレンジャー | |
2000年 | 総合6位[15] | パジェロエボリューション | |
2001年 | 総合2位[15] | パジェロ | 9日間総合首位を死守するも、ジャン=ルイ・シュレッサーらライバルチームの妨害行為と主催者の走行時間の計時ミスにより総合2位となる(優勝は同僚のユタ・クラインシュミット)。 |
2002年 | 総合優勝[16] | パジェロ | 初優勝。三菱は総合優勝2連覇。 |
2003年 | 総合優勝[16] | パジェロエボリューション | 日本人初の2連覇[17]。三菱は総合優勝3連覇[17]。 |
2004年 | 総合2位[16] | パジェロエボリューション | 三菱は総合優勝4連覇を獲得[18]。 第7ステージスタート前に強盗に銃口を突きつけらるトラブルに巻き込まれた[18]:5。 |
2005年 | DNF[16] | パジェロエボリューション | 1月10日の第10ステージで発生したエンジントラブルでリタイア[19]。 |
2006年 | DNF | パジェロエボリューション | 1月3日の第3ステージで着地時の際、車体が一部損傷。短時間での修復が難しかったため、リタイア。 |
2007年 | 総合5位[20] | パジェロエボリューション | |
2008年 | DNS | パジェロエボリューション | モーリタニアの治安悪化のため大会が中止となった。 |
2009年 | DNF[21] | レーシングランサー | ボルト破損トラブルにより初日リタイア[21]。 |
ドライバーとしての他の活動[編集]
- 三菱自動車工業「アウトランダー」 - スペシャルサイト上で公開されているテストドライブの映像にテストドライバーとして出演してるだけでなく、CMでも江口洋介、武豊に続いて出演。
- 2003年から2006年にかけて販売された、3代目パジェロ(ロング)の特別仕様車「アクティブフィールドエディション」の歴代モデル開発に参加し、駆動系を中心にチューニングを行った。
- 4WD登坂キットを使用した傾斜45°体験イベントでデリカD:5・エクリプスクロス・パジェロ・アウトランダーを用いたドライバーとして、全国各地の三菱ディーラー等やモータースポーツイベント等で全国キャラバンイベントを行っている。
CM[編集]
- 三菱自動車工業 アウトランダー 『増岡浩 出会い篇』 2006年1月5日から放映開始
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ “ダカールラリーで活躍するラリードライバー 増岡浩氏に聞く”. GAZOO. トヨタ自動車 (2015年8月25日). 2024年5月12日閲覧。
(二)^ abcd“増岡浩のパリダカ参戦への軌跡を知られざるエピソードとともに振り返る ︻連載1︼ 1985~1988 衝撃だった初代パジェロ”. 三菱自動車工業株式会社. 2006年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月16日閲覧。
(三)^ “彩の国功労賞 受賞者・団体”. 埼玉県. 2020年2月15日閲覧。
(四)^ “元気な入間・生き生き功労賞”. 埼玉県入間市. 2020年2月15日閲覧。
(五)^ “元気な入間・生き生き大使”. 埼玉県入間市. 2020年2月15日閲覧。
(六)^ 技術屋集団 三菱自動車 VOL.9 増岡 浩とダカール・ラリー︵前編︶
(七)^ ﹃組織改正および人事異動﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社、2010年3月23日。2010年7月24日閲覧。
(八)^ “三菱 i-MiEV エコランのコツとは? 燃費マスター増岡浩氏に訊く”. Response. (2010年5月19日) 2010年7月24日閲覧。
(九)^ ﹃組織改正・人事異動﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社、2013年11月26日。2014年2月26日閲覧。
(十)^ “ミツビシ、増岡浩を起用しi-MiEVプロトでパイクスピーク挑戦へ”. オートスポーツ. (2012年3月1日) 2012年3月5日閲覧。
(11)^ ﹃<パイクスピーク決勝速報> パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム2013 ﹃MiEV EvolutionII﹄が電気自動車クラス2位、3位でフィニッシュ﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社、2013年7月1日。2015年5月16日閲覧。
(12)^ ﹃パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム2014﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社、2014年6月30日。2020年2月15日閲覧。
(13)^ “﹁“負けず嫌い”スピリットが感じられる車を作りたい﹂パリダカドライバー・増岡浩が語る“名車”の遺伝子”. 日刊カーセンサー (2019年3月28日). 2020年10月1日閲覧。
(14)^ チーム三菱ラリーアート、増岡浩を総監督に迎えアジアクロスカントリーラリー2022に参戦へ - オートスポーツ・2022年3月18日
(15)^ abcdefghijkl“増岡浩のパリダカ参戦への軌跡を知られざるエピソードとともに振り返る ︻連載2︼ 1990~2001 精神と肉体の鍛錬”. 2006年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月16日閲覧。
(16)^ abcd“増岡浩のパリダカ参戦への軌跡を知られざるエピソードとともに振り返る ︻連載3︼ 2002年~2005年 パリダカ連覇 そしてプロのラリー・ドライバーへ”. 2006年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月16日閲覧。
(17)^ ab﹃三菱、パリダカ3連勝!﹁チームENEOS三菱ラリーアート﹂ 三菱パジェロエボリューション 増岡浩、2連覇達成!﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社、2003年1月20日。2021年7月16日閲覧。
(18)^ ab﹁パリダカ﹂︵PDF︶﹃ラリーアートジャーナル﹄第105巻、株式会社ラリーアート、2004年、2-5頁、 オリジナルの2018年11月4日時点におけるアーカイブ、2021年7月16日閲覧。
(19)^ ﹁2005ダカールラリー﹂︵PDF︶﹃ラリーアートジャーナル﹄第109巻、株式会社ラリーアート、2005年、3頁、 オリジナルの2018年11月4日時点におけるアーカイブ、2021年7月16日閲覧。
(20)^ ﹃2007年ダカールラリー、全16日間・約8000kmの激闘が閉幕 ﹁チーム・レプソル三菱ラリーアート﹂ペテランセルの自身3度目の総合優勝により、チームの7連覇・通算12勝を達成﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社、2007年1月22日。2021年7月16日閲覧。
(21)^ ab﹃2009年ダカールラリーの前半戦が終了 ホアン・ナニ・ロマが総合4位で後半戦の巻き返しに望む﹄︵プレスリリース︶三菱自動車工業株式会社。2021年7月16日閲覧。