大久保偵次
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大久保 偵次 | |
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生誕 | 1883年6月15日 |
死没 | 1973年2月10日(91歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科 |
職業 | 大蔵官僚 |
配偶者 | 池田スミ |
子供 | 大久保輝臣 |
大久保 偵次︵おおくぼ ていじ、1883年︵明治16年︶6月15日 - 1973年︵昭和48年︶2月10日[1]︶は、日本の大蔵官僚。銀行局長時代に帝人事件の被告となるも無罪判決を受けた。関場家の養子[2]となっていたため、前半生では関場偵次と名乗る[* 1]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together_cropped.jpg/220px-Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together_cropped.jpg)
大久保の局長在任時は主に齋藤内閣の時代で、大久保は大蔵大臣高橋是 清︵左︶を補佐する。齋藤内閣は帝人事件で総辞職した。
鹿児島県に生まれる[3]。長兄が屯田兵となっていたことから北海道琴似村に移住し、17歳で関場不二彦の養子となった。札幌中学、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験に合格し、大蔵省に入省する。同期生に首席の後藤文夫や、石黒忠篤などがいる[4]。
官歴は大蔵属に始まる。大蔵省事務官、同書記官を経て、仏国、英国各駐剳財務官代理、国際連盟総会随員を歴任。第一次世界大戦終結後の独国による対日賠償に関わった[5]。銀行局検査課長、日本銀行と横浜正金銀行の検査官を経て1930年︵昭和5年︶3月、銀行局長に就任。1934年︵昭和9年︶帝人事件で収賄に問われ休職となる。しかしこの裁判は被告16名全員が無罪となった。穂積重遠は帝大同期生有志101名を代表して大久保を弁護した[6]。その後は北支那開発理事[7]、同社経理部長[8]、金属回収統制会社社長[1]を務めた。
戦後に公職追放となり[9]、同郷後進の育英事業に尽力する。1905年︵明治38年︶、大久保は土居通次︵のち徳島県知事︶と北海道学生会を創設していた[10]。1933年︵昭和8年︶、会は財団法人北海道在京学生後援会に発展し、その初代理事長に就任。東京大空襲で寮が焼失したため、他の一人と個人保証で融資を受けて再建した[3]。1970年︵昭和45年︶まで在任し[3]、前年には藍綬褒章を授与されている[3]。
大久保の妻は大審院院長池田寅二郎の妹スミ[7]。フランス文学者大久保輝臣は長男[3]である。
生涯[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/37/Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together_cropped.jpg/220px-Korekiyo_Takahashi_and_Makoto_Saito_last_pic_together_cropped.jpg)
脚注[編集]
- 注釈
- 出典