大岡博
大岡 博︵おおおか ひろし、1907年︵明治40年︶3月9日 - 1981年︵昭和56年︶10月1日︶は、日本の歌人。
経歴[編集]
静岡県静岡市生まれ。貿易商だった父延時︵1883年 - 1935年︶の関係で少年期までを神戸で過ごす[注釈 1][1]。その後、三島に定住[2][注釈 2]。曾祖父の永夢は幕臣で旗本[1]。徳川慶喜の駿府移住に随行し、同地に住んだ[注釈 3]、祖父直時は、三島に移り[1]、のちに三島警察署長を務めた。1924年︵大正13年︶沼津中学校︵現静岡県立沼津東高等学校︶卒業後[2]、父不在のもと苦学し[1]、家族の病気や経済面から進学を断念して三島市で教職につく。のちに1949年︵昭和24年︶から1951年︵昭和26年︶まで県教職員組合執行委員長、初代県立児童会館長、中学校校長を務めるなど教育者として力を尽くした[1]。そのかたわら作歌を続け、豊島逃水、窪田空穂の指導を受けた[3]。 19歳で私家版歌集を刊行、雑誌に小説を発表するなど創作活動に励み、1934年︵昭和9年︶、歌誌﹃菩提樹﹄︵元﹃ふじばら﹄︶創刊。1936年︵昭和11年︶入門以降、窪田空穂門の重鎮として歌壇で活躍、1959年︵昭和34年︶には静岡県歌人協会初代会長となった。﹁三島市歌﹂︵元﹁三島町町歌﹂が市制施行に伴い市歌に変更︶、﹁三島市制施行祝賀行進曲﹂、﹁春のひぐれ﹂、﹁四月の海﹂など作詞も多い。1986年︵昭和61年︶、三島市立楽寿園に歌碑が建立された。 長男は詩人の大岡信。孫は小説家の大岡玲、詩人の大岡亜紀。歌集[編集]
- 白萩 (私家版、大岡博祐名義、1926年)
- 渓流 (長谷川書房、1952年)
- 南麓 (春秋社、1963年)
- 童女半跏 (牧羊社、1973年)
- 春の鷺 (花神社、1982年[注釈 4])
- 大岡博全歌集 (花神社、2008年)
歌論集[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 父は、幼くしてその父直時と死別。横浜の高等商業を卒業。神戸の貿易会社入社。その後自身で貿易会社を経営するも、第一次世界大戦後の不況でつぶれる。大正の末に上海に転じて貿易を行っていたが、脳溢血により上海で客死する。鶴岡善久﹁人と作品﹂﹃日本の詩 大岡信﹄ほるぷ出版、1985年 pp.312、吉本隆明、大岡信﹁対談 古典をどう読んできたか﹂﹃國文學﹄學燈社、1975年 p.7
(二)^ 父の上海行ののち祖父直時の縁を頼り三島に移住した。鶴岡善久﹁人と作品﹂﹃日本の詩 大岡信﹄ほるぷ出版、1985年 pp.312
(三)^ 江戸時代には四谷見附の辺に屋敷があった。﹃國文學﹄學燈社、1975年 p.7
(四)^ 没後、大岡信により編集、刊行。鶴岡善久﹁人と作品﹂﹃日本の詩 大岡信﹄ほるぷ出版、1985年 pp.313
(五)^ 雑誌﹃短歌芸術﹄芸術生活社掲載論文、1951年第7巻8月号﹁上代短歌﹂、第7巻9月号﹁上代短歌とその周辺︵二︶﹂を基に刊行。
(六)^ 没後、大岡信により編集、刊行。鶴岡善久﹁人と作品﹂﹃日本の詩 大岡信﹄ほるぷ出版、1985年 pp.313