大谷享子
おおたに きょうこ 大谷 享子 | |
---|---|
ミス・ユニバース・ジャパン決定を伝える報道 | |
生誕 |
1936年2月11日 日本・和歌山県 |
死没 | 2006年1月17日 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 国際クッキングスクール |
職業 | 株式会社日美代表取締役社長 |
活動期間 | 1966年 - 1997年 |
著名な実績 | ミス・ユニバース・ジャパン1957 |
身長 | 168 |
体重 | 55 |
配偶者 | 大谷 巳津彦 |
子供 | 大谷 裕巳(宗裕) |
親 | 大谷 貴義 |
補足 | |
スリーサイズ:87-56-87 |
大谷 享子︵おおたに きょうこ、1936年2月11日[1] - 2006年1月17日︶は、昭和32年︵1957年︶のミス・ユニバース・ジャパンである。世界大会︵ミス・ユニバース1957︶でTop15に入賞、大陸別部門賞のMiss Asiaを受賞。
戦後最大級のフィクサーと呼ばれた大谷貴義[注釈 1]の長女である[2]。
経歴・人物[編集]
和歌山県出身[1]。大妻女子大学短期大学部を中途退学し、国際クッキングスクールを卒業した[3]。 1957年、ミス・ユニバースの国内大会に応募するも、最初はその事実が発覚するのを恐れて新聞を隠したりもした[4]。日本代表に選ばれ、同年7月にカリフォルニア州のロングビーチで行われた第6回ミス・ユニバース世界大会︵ミス・ユニバース1957︶に出場。﹁一人娘だったこともあり家庭の監督はすごくきびしかった﹂[5]が、それに対する反抗精神もあり[6]、反対を押し切っての出場だった。 その大会で、当時21歳無職[7]で身長168センチ、体重55キロ、スリーサイズ87-56-87[8]だった大谷はセミファイナルに進出、Top15に入賞し、大陸別部門賞のMiss Asiaを受賞した[3]。 作家の吉川英治のすすめにより、1960年︵昭和35年︶、裏千家14世千宗室の三男・巳津彦と結婚した。媒酌人は、吉川夫妻と福田赳夫[注釈 2]夫妻が勤めた。父・大谷貴義が福田と懇意で、裏千家と福田首相を結び付けた人物とも言われる[2]。 1966年︵昭和41年︶、夫と死別し株式会社日美の代表取締役社長に就任。1997年︵平成9年︶、社長職を長男・裕巳︵宗裕︶に譲り、代表取締役会長に就任。 2006年︵平成18年︶1月17日、69歳で死去した[9]。 弟の吉右は、父・大谷貴義同様宝石卸・貸しビル業を営み、政・財・官界、芸能界、スポーツ界の著名人と深い親交がある。2008年の裏千家の初釜に福田康夫首相[注釈 3]が出席したのも大谷貴義のつながりだとする報道もある[2]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ab産経日本紳士年鑑 1969, p. 407.
(二)^ abc週刊新潮 2008, p. 54.
(三)^ ab大谷 1959, p. 42.
(四)^ ﹁人物双曲線 ミス・ユニバースとミス・ワールド﹂﹃週刊朝日﹄第62巻第26号、朝日新聞社、1957年6月23日、80頁。
(五)^ ﹁日本にも可能性!ミス・ユニバースの舞台裏―世界一の美女をねらう各国のマイアミ・ビーチ作戦―﹂﹃平凡パンチ﹄第3巻第14号、平凡出版、1966年、94f、全国書誌番号:00021496。
(六)^ 井上章一﹃美人コンテスト百年史 芸妓の時代から美少女まで﹄新潮社、1992年3月25日、150-151頁。doi:10.11501/13327841。ISBN 4-10-385001-9。
(七)^ 相沢正夫﹃数字雑学事典﹄毎日新聞社、1977年4月5日、90-91頁。 NCID BA75766185。
(八)^ ﹁ミス・ユニバース大谷さん、ミス・ワールド依藤さん﹂﹃朝日新聞﹄、1957年6月10日、7面。
(九)^ ﹁大谷享子氏逝去﹂﹃淡交﹄第60巻第4号、淡交社、135頁、ISSN 0289-3908。 ※2006年(平成18年)4月号