児島明子
児島 明子 | |
プロフィール | |
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生年月日 | 1936年10月29日 |
現年齢 | 87歳 |
出身地 | 日本・東京 |
瞳の色 | ブラック |
毛髪の色 | ブラック |
公称サイズ(1959年時点) | |
身長 / 体重 | 167 cm / 55 kg |
BMI | 19.7 |
スリーサイズ | 97 - 60 - 96 cm |
備考 | 上記及び下記換算は日本大会の数値。世界大会の数値は本文を参照。 |
活動 | |
ジャンル | ファッション |
モデル内容 | 一般 |
備考 | 第8回ミス・ユニバース世界大会優勝 |
事務所 | FMG |
モデル: テンプレート - カテゴリ |
児島 明子︵こじま あきこ、1936年10月29日 - ︶は、日本のファッションモデルである。1959年︵昭和34年︶のミス・ユニバース・ジャパンでもあり、アメリカ合衆国で開催された第8回ミス・ユニバース世界大会︵ミス・ユニバース1959︶で栄冠を獲得した。日本人として、アジア人として初めて[1]のミス・ユニバース世界大会優勝者である。当時は﹁有色人種﹂初のミス・ユニバースとも言われた。また、1952年の第1回大会で優勝したミス・フィンランド、アルミ・クーセラ以来の旧枢軸国︵第二次世界大戦の敗戦国︶出身のミス・ユニバースでもあり[注釈 1]、アメリカと戦った国としては初めてである。宝田明の最初の妻、児島未散の母としても知られる。
人物・来歴[編集]
1936年︵昭和11年︶10月29日、東京府東京市︵現在の東京都区部︶世田谷区豪徳寺に生まれた。出生時の体重は1貫110匁︵4160グラム︶もあった[2]。5歳から水泳を始めた。小学校2年のとき大東亜戦争︵太平洋戦争︶のため高知県高知市に疎開し[3]、高知市立潮江小学校・私立土佐女子中学校を卒業した[4]。4人きょうだいの2人目であったが、1950年︵昭和25年︶に旧軍人だった父[2]が亡くなり、以後は姉や弟と共に母に育てられた[3]。高知市立高知商業高等学校在学中は平泳ぎの選手として活躍した[3]。 1953年︵昭和28年︶推薦を辞退した姉の代わりに、帝国劇場で開かれた[5]第2回ミス・ユニバース日本大会に16歳の若さで四国代表として出場し、日本代表に選ばれた伊東絹子︵世界大会で第3位に入賞︶に次ぐ準ミスに入賞した[6]。 高校卒業後、帰京してFMGに所属し[6]、ファッションモデルをしていた1958年︵昭和33年︶ミス・ユニバースとミス・ワールドの日本代表を同時に選ぶ大会に応募し、21歳で東京代表となった[注釈 2]。しかし日本代表を選ぶ直前の6月4日、都内で行われた各地代表のパレードの最中、児島らが乗っていた車が追突事故に巻き込まれ、児島を含む4人が負傷した[7][注釈 3]。児島は有力候補と見られていたが、やむなく棄権した[8]。 児島は2か月の入院を余儀なくされたが、翌年の地区予選を免除され、東京体育館で開かれる日本大会に出場出来ることになった。年が明けると、オーストラリアを2回訪れてファッションショーに参加した[9]。 1959年︵昭和34年︶6月12日、三たび挑戦した児島は一の瀬千恵子︵ミス・ワールド日本代表︶と共に優勝し、前年の森武知子からミス・ユニバース日本代表︵﹃ミス・ユニバース・ジャパン﹄︶を引き継ぎ、同年7月18日︵現地時間による。日本時間では19日︶からアメリカ・ロングビーチで開催されたミス・ユニバース1959に出場した。この大会はミスUSA大会と合同で行われ、児島はホテルでミス・イリノイと同室であった[10]。 7月23日︵日本時間24日︶、予選を通過、トップ15に残る[11]。7月24日︵日本時間25日︶の最終審査で、ブラジル、イングランド、USA、ノルウェーの各代表を抑えて優勝し、第7代ミス・ユニバースのミス・コロンビア、ルス・マリナ・スールアガから栄冠を譲り受けた。児島はたどたどしい英語で夢は﹁かわいい妻になりたい[1]︵to make a lovely wife︶﹂と話し、好きなスポーツとして水泳とゴルフを挙げた[12]。また、5月26日に開催が決まっていた1964年東京オリンピックについて﹁5年後には日本でオリンピックが催されます。日本では全力をあげてその準備を進めています。みなさんの来日を心からお待ちしています。私はスポーツ選手ではありませんが、いまこの美しいロングビーチで美のオリンピックともいうべきミス・ユニバース・コンテストに参加できたことを心から幸福に思っています﹂と日本語で話した[13]。-
プレス写真。ベッドでの朝食の様子(ロングビーチ、1959年)
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同プレス写真 着物姿
児島は当時22歳で、日本大会の主催者︵産業経済新聞社︶発表では身長は167センチメートル、体重は55キログラム、スリーサイズは97-60-96 cm[注釈 4]。大会に出場した全国の代表56人中、体重は11番目、ウエストは10番目に過ぎなかったが身長は5番目に高く、最大のバストと2番目のヒップを誇った[14]。バスト97 cmは公表された限りにおいて、現在に至るまで歴代ミス・ユニバース・ジャパンの最大サイズであり、ヒップ96 cmは2番目である[注釈 5]。世界大会では少し痩せたが身長5フィート6インチ=66インチ≒167.6 cm、体重は120ポンド≒54.4 kg、スリーサイズは37-23-38インチ≒94.0-58.4-96.5 cm。5位のミス・ブラジル、ベラ・リベイロ︵身長67インチ、スリーサイズ37-23-37インチ。以下数値のみ︶、4位のミス・イングランド、パメラ・アン・サール︵67、36-24-36︶、3位のミスUSA、テリー・ハンティンドン︵67、36-23-36︶、2位のミス・ノルウェー、ヨルン・クリスチャンセン︵68、35-24-35︶はいずれも児島より大柄だったがバスト、ヒップの大きさ、ウエストの細さで児島を超えなかった[12][15][注釈 6]。歴代のミス・ユニバースと比べても、初代のアルミ・クーセラ︵65、34-23-34︶[16]、第2代のミス・フランス、クリスティアン・マルテル︵66、33-22-35︶[17]、第3代のミスUSA、ミリアム・スティーブンソン︵66、36-24-36︶[18]、第4代のミス・スウェーデン、ヒレヴィ・ロンビン︵67、36-23-36︶、第5代のミスUSA、キャロル・モリス︵67、36-25-36︶、第6代のミス・ペルー、グラディス・ツェンダー︵67、36-23.5-36︶[19]、そしてルス・マリナ・スールアガ︵64、35.5-23.5-35.5︶[20]のバスト、ヒップを全て上回り、ウエストはマルテルに次ぐ細さだった。
児島は第8代ミス・ユニバースとして黄金のトロフィーなどの賞品、2500ドル︵当時の為替レートで90万円︶の賞金と8500ドル︵306万円︶の契約金を受け取り[21]、契約に従ってアメリカ合衆国の各州や世界の各国を訪れた。一時は1貫200匁︵4.5キログラム︶も痩せるなど苦労もあったが[22]、最後に1960年︵昭和35年︶7月、マイアミビーチで開かれた第9回世界大会で優勝したミスUSAのリンダ・ビメント︵66、37-23-36︶[23]に栄冠を授けて大役を終えた[注釈 7]。児島から日本代表を引き継いだ古野弥生はセミファイナルに進出したが、最終審査に残ることは出来なかった[注釈 8]。
1966年︵昭和41年︶4月29日[24][25][注釈 9]、29歳で俳優の宝田明︵当時32歳︶と結婚し[26]、1974年︵昭和49年︶1月の次男出産までの8年間に2男1女を授かった[27][注釈 10]が、1984年︵昭和59年︶に離婚し[28]、3人の子供を引き取って養育した。歌手の児島未散は長女で、宝田との最初の子供である[27]。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ミス・ドイツの優勝は1961年にマルレーネ・シュミットが達成したが、ミス・イタリアの優勝は現在に至るまで無い。旧ソビエト連邦の衛星国になったブルガリアとルーマニアは1991年、ハンガリーは1992年に初めてミス・ユニバースに参加した。
(二)^ ミス・ワールドはミス・ユニバースより早く1951年︵昭和26年︶からロンドンで開催されていたが、日本は1956年︵昭和31年︶から参加し、当初はミス・ユニバースと同時に日本代表が選ばれていた。
(三)^ 負傷者のうち児島を含む3人が東京代表で、軽傷だった種子島凱江︵20歳のモデル︶はそのまま出場してミス・ワールド部門の3位に入賞したが、児島と同じく重傷だった小林喜久江︵20歳の松坂屋店員︶は翌年の日本大会に出場した︵﹃週刊サンケイ﹄1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース ワールド 美の祭典60頁︶。
(四)^ 児島がミス・ユニバース日本代表に選ばれたときのスリーサイズについて﹃中部日本新聞﹄﹃毎日新聞﹄は93-58-97 cmと伝え、﹃朝日新聞﹄﹃週刊サンケイ﹄︵1959年7月臨時増刊号7・40・60頁︶は97-60-96 cmと伝える。世界大会優勝時は朝日新聞は93-58-97、週刊サンケイは97-60-96と伝え、その他の新聞は37-23-38インチのcm換算値を伝えている。
(五)^ 児島以外では、バストは1985年︵昭和60年︶の古沢初美︵92-60-90︶が最大である︵公表されたものに限る︶。1989年︵平成元年︶頃までは、主要な新聞が日本代表の身長やスリーサイズを載せるのが通例であったが、その後はスリーサイズを公表していない代表も多い。2007年︵平成19年︶に児島に続く世界大会優勝者となった森理世は当時非公表だったが、その後公表している︵80-58-90︶。ヒップは2022年︵令和4年︶の坂本麻里ベレン︵88-62-100︶が63年ぶりに児島を上回った。
(六)^ セミファイナルに進出した15人のうちでも、児島の身長は10番目だったがバストは2番目に大きく、ヒップは最大で、ウエストは4番目に細かった。
(七)^ 1960年からミス・ユニバース世界大会の開催地はマイアミビーチに移った。この大会には後に女優になったダニエラ・ビアンキがミス・イタリアとして出場して2位に入った。一方、ロングビーチでは第1回ミス・インターナショナル世界大会が開かれ、日本も参加した。ビメントの身長・体重・バスト・ウエストは児島と同じだったが、ヒップだけは2インチ小さかった。
(八)^ ﹃毎日新聞﹄1960年6月11日11面﹁雑記帳﹂によると、古野も身長・体重・ウェストは児島とほぼ同じで、88-57-92という素晴らしいプロポーションの持ち主であった。
(九)^ 二人は10年前から交際しており、三島由紀夫の小説にちなんで﹁永すぎた春﹂と言われた。結婚式はパレスホテルで行われた。二人の誕生日はちょうど半年離れており、この日は宝田の誕生日で児島のハーフバースデーでもあった。
(十)^ ﹃現代日本映画人名事典 男優篇﹄︵キネマ旬報社、2012年 ISBN 9784873763873︶の﹁宝田明﹂の項目︵167~168頁︶には﹁二女をもうけた﹂とあるが、週刊朝日の記事は2男1女の名前も記しており、﹃朝日新聞﹄1980年3月7日26面﹁顔﹂コーナーでも宝田明を﹁三児の父﹂と説明しているので、そちらに従う。
出典[編集]
(一)^ ab﹁ミス・ユニバース 児島さんに栄冠﹂﹃朝日新聞﹄、1959年7月26日、朝刊。
(二)^ ab﹁アルバム 生いたち 宇宙一の美女が生れるまで﹂﹃週刊サンケイ﹄第8巻第37号、産業経済新聞社、1959年8月25日、31-32頁。
(三)^ abc児島明子嬢に栄冠60年度のミス・ユニバース﹃中部日本新聞﹄1959年7月25日夕刊1面
(四)^ 泣けて泣けて、うれしくて・・児島さん、故国へ元気な第一声﹃中部日本新聞﹄1959年7月26日7面
(五)^ ﹃週刊サンケイ﹄1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース ワールド 美の祭典10頁
(六)^ ab目指すは﹁世界一﹂笑顔と涙の両嬢﹃中部日本新聞﹄1959年6月13日7面
(七)^ ミス東京ら四人ケガ パレードの車に追突﹃朝日新聞﹄1958年6月4日夕刊5面
(八)^ 児島さんと一の瀬さん ミス・ユニバース、ワールド代表﹃朝日新聞﹄1959年6月13日11面
(九)^ ﹃週刊サンケイ﹄1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース ワールド美の祭典9頁、17頁
(十)^ ﹁アメリカ日記﹂﹃週刊サンケイ﹄第8巻第37号、産業経済新聞社、1959年8月25日、16頁。
(11)^ ﹁児島さん予選通過 ミス・ユニバース﹂﹃朝日新聞﹄、1959年7月25日、朝刊。
(12)^ ab“Japanese Girl Beauty Queen”. The Sydney Morning Herald. (1959年7月26日) 2019年4月18日閲覧。
(13)^ ミス・ユニバース決定の瞬間 発表も歓声に消えて 児島さんの頭上に王冠﹃中部日本新聞﹄1959年7月26日1面
(14)^ ﹃週刊サンケイ﹄1959年7月臨時増刊号 ミス・ユニバース ワールド美の祭典58~65頁
(15)^ “Entretelones Miss Universo 1959”. ChileanCharm.com. 2018年10月27日閲覧。
(16)^ “Blonde from Finland named Miss Universe”. Ottawa Citizen. (1952年6月30日) 2018年11月26日閲覧。
(17)^ “New Miss Universe Is a Cute Parisian Dish”. Spokane Daily Chronicle. (1953年7月18日) 2019年4月18日閲覧。
(18)^ “South Carolina's Miriam Stevenson Wins "Miss Universe"; Miss Brazil Second”. Spokane Daily Chronicle. (1954年7月24日) 2019年4月19日閲覧。
(19)^ “Peruvian beauty, new Miss Universe”. Lodi News-Sentinel. United Press. (1957年7月20日) 2019年4月18日閲覧。
(20)^ “New Miss Universe Is Looking for Husband, Not Movie Glamour”. Lakeland Ledger. (1958年7月27日) 2019年4月19日閲覧。
(21)^ ﹁ミス・ユニバース 宇宙一の美女たち﹂﹃週刊サンケイ﹄第8巻第37号、産業経済新聞社、1959年8月25日、43-44頁。
(22)^ ﹁今日この日まで﹂﹃週刊サンケイ﹄第8巻第37号、産業経済新聞社、1959年8月25日、35頁。
(23)^ “Utah Beauty Named New Miss USA”. Daytona Beach Morning Journal. (1960年7月8日) 2019年4月20日閲覧。
(24)^ ﹁四月に結婚﹂発表 宝田明と児島明子﹃朝日新聞﹄1966年2月9日夕刊6面
(25)^ 宝田明と児島明子が挙式﹃中日新聞﹄1966年4月30日15面
(26)^ 窪田延夫、阿部昭子﹁カラー 宝田明・児島明子結婚﹂﹃週刊平凡﹄第8巻第20号、平凡出版、1966年、5-9頁、doi:10.11501/1850745。
(27)^ ab﹁23年間のミス・ユニバース 美女の運命はいかに?﹂﹃週刊朝日﹄第79巻第20号、朝日新聞社、1974年5月3日、139-143頁。
(28)^ ﹃テレビ・タレント人名事典 第6版﹄2004年 日外アソシエーツ 681頁 ISBN 9784816918520
関連項目[編集]
- 森理世 - ミス・ユニバース2007優勝(児島以来48年ぶりの日本人の優勝者)
- トランジスターグラマー - 児島の優勝を契機に生まれた流行語
外部リンク[編集]
- 優勝時のニュース映像 British Pathé
- NHKアーカイブス 日本人女性が初のミス・ユニバース - 日本放送協会(NHK)
- 児島明子さん晴れの栄冠(昭和34年7月31日公開) - 中日ニュース289号(動画)・中日映画社
- 美の女王帰る(昭和34年8月21日公開) - 中日ニュース292号(動画)・中日映画社