大阪市立岸里小学校
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大阪市立岸里小学校 | |
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過去の名称 |
西成郡玉出第二尋常小学校 大阪市玉出第二尋常小学校 大阪市岸里国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 大阪市 |
設立年月日 | 1913年11月19日 |
創立者 | 西成郡勝間村 |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | B127210002588 |
所在地 | 〒557-0054 |
大阪府大阪市西成区千本中1丁目8番22号 | |
外部リンク | 公式サイト |
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大阪市立岸里小学校︵おおさかしりつ きしのさとしょうがっこう︶は、大阪府大阪市西成区にある公立小学校。
沿革[編集]
地域の市街地化に伴う児童数増加により、西成郡玉出尋常高等小学校︵現在の大阪市立玉出小学校︶より分離する形で、当時の西成郡玉出町で2番目の小学校として1913年に開校した。開校当初は現在の大阪市西成区千本南1丁目15番付近に校舎があったが、1924年に現在地に移転している。 1925年には大阪市への編入により、大阪市玉出第二尋常小学校と改称している。大阪市編入後の1927年には校区変更をおこない、従来の今宮第五尋常高等小学校︵現在の大阪市立橘小学校︶校区だった西成区皿池町︵現在の岸里1丁目および潮路1丁目の大半、旧西成郡今宮町︶を校区に編入している。 1941年の国民学校令により大阪市岸里国民学校に改称した。太平洋戦争の戦局悪化により1944年に学童集団疎開がおこなわれることになり、西成区の各国民学校は大阪府南部︵泉州地域︶および和歌山県へと疎開先が指定された。岸里国民学校では当初和歌山県海南市への疎開を実施したが、疎開先も危険になったとして1945年には滋賀県佐山村︵現・甲賀市︶への再疎開が実施されている。 1945年3月13日の大阪大空襲では、校舎が半焼する被害を受けた。 学制改革により、1947年に大阪市立岸里小学校へと改称している。1969年には地域住民の要望により、従来の校区だった天神ノ森2丁目を大阪市立晴明丘小学校校区へと変更している。年表[編集]
●1913年10月31日 - 西成郡玉出第二尋常小学校として創立。 ●1924年6月22日 - 現在地に移転。 ●1925年4月1日 - 大阪市への編入に伴い、大阪市玉出第二尋常小学校に改称。 ●1927年4月 - 校区変更。 ●1934年 - 室戸台風で被災、木造校舎が倒壊。7人以上が死亡、負傷者多数[1]。 ●1941年 - 国民学校令により、大阪市岸里国民学校に改称。 ●1944年9月 - 和歌山県海南市および滋賀県佐山村︵現・甲賀市︶に集団疎開。 ●1945年3月13日 - 大阪大空襲で校舎が半焼。 ●1947年 - 学制改革により、大阪市立岸里小学校に改称。 ●1948年 - 学校敷地を拡張。 ●1968年11月 - 学校給食優良校として、文部省から表彰を受ける。 ●1969年4月 - 校区変更。 ●1981年 - 卒業生でノーベル化学賞受賞者の福井謙一が来校し、講演を行う。記念に特別活動室を校内に設置し、業績を展示。 ●1998年9月 - 交通安全優良校として、大阪府警から表彰を受ける。 ●1998年10月 - 大阪市教育委員会から国語科の研究校に指定され、研究発表を実施。 ●2002年11月 - 大阪市教育委員会から﹁個性が輝く学校づくり﹂推進事業校に指定され、道徳教育の研究発表を実施。通学区域[編集]
●大阪市西成区 岸里1丁目︵一部︶、岸里2丁目、岸里3丁目、岸里東1丁目︵一部を除く︶、岸里東2丁目、潮路1丁目︵一部を除く︶、潮路2丁目︵一部を除く︶、千本北1丁目︵一部︶、千本中1丁目︵東半分︶、千本南1丁目︵東半分︶、天下茶屋3丁目︵一部︶、玉出東1丁目︵一部︶、玉出中1丁目︵一部︶。 卒業生は基本的に大阪市立成南中学校に進学する。出身者[編集]
●福井謙一 - 化学者 ●野口猛 - 作詞家 ●やしきたかじん - シンガーソングライター ●徳田将至 - 元プロ野球選手交通[編集]
●Osaka Metro四つ橋線 岸里駅 西へ約250m。 ●南海本線・高野線 岸里玉出駅 岸里口から北西へ約600m。 ●南海本線・高野線・Osaka Metro堺筋線 天下茶屋駅 南西へ約800m。脚注[編集]
- ^ 学校倒壊百四十三、学童死傷二千四百人『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)