宋濂
宋 濂︵そう れん、至大3年10月13日︵1310年11月4日︶ - 洪武14年5月20日︵1381年6月12日︶︶は、中国元末明初の政治家・儒学者・文学者。字は景濂。号は潜渓・無相居・竜門子・玄真子。婺州浦江県の出身︵先代まで婺州金華県潜渓、現在の浙江省金華市金東区︶。
略歴[編集]
貧しい家庭に生まれたが、学問を好み、儒学に精通するようになった。呉萊・柳貫・黄溍といった古文の大家に学び、至元元年︵1335年︶には義塾︵私塾︶の教師となった。順帝のとき翰林院編修に任ぜられたが、父母に孝養を尽くす事を理由に固辞して隠居し、著述に専念した。 至正20年︵1360年︶、浙東四先生のひとりとして名声が高まっていた宋濂は、有力な反乱勢力となっていた朱元璋︵洪武帝︶に招聘された[1]。朱元璋が明を建国すると、江南儒学提挙に任ぜられ太子に儒教の経典を講じた。そして、明代の礼楽制度を多く裁定した。洪武2年︵1369年︶、﹃元史﹄の編纂を命じられ、その主任となった。官は翰林学士承旨・知制誥に至った。洪武10年︵1377年︶、老齢を理由に官を辞し故郷に帰った。洪武13年︵1380年︶、孫の宋慎が胡惟庸の獄に巻き込まれ、家族全員が茂州︵現在の四川省茂県︶に流罪となった。そして流刑地に赴く途中夔州︵現在の重慶市奉節県︶で病死した。諡は文憲。二十四史 |
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二十四史 |
司馬遷『史記』 |
班固『漢書』 |
范曄『後漢書』 |
陳寿『三国志』 |
房玄齢等『晋書』 |
沈約『宋書』 |
蕭子顕『南斉書』 |
姚思廉『梁書』 |
姚思廉『陳書』 |
魏収『魏書』 |
李百薬『北斉書』 |
令狐徳棻等『周書』 |
魏徴・長孫無忌等『隋書』 |
李延寿『南史』 |
李延寿『北史』 |
劉昫等『旧唐書』 |
欧陽脩・宋祁『新唐書』 |
薛居正等『旧五代史』 |
欧陽脩『新五代史』 |
脱脱等『宋史』 |
脱脱等『遼史』 |
脱脱等『金史』 |
宋濂等『元史』 |
張廷玉等『明史』 |
二十六史 |
柯劭忞等『新元史』 |
趙爾巽等『清史稿』 |
その他 |
班固・劉珍・蔡邕等『東観漢記』 |
中華民國版『清史』 |
中華民國版『新清史』(未完) |
中華人民共和国版『清史』 |
文学史の分野では、宋濂は劉基・高啓とならんで明初の詩文三大家の一人に数えられている。儒教においても、自ら儒教の伝統の正統な継承者を以て任じていた。唐・宋代の文を手本に﹁宗経﹂﹁帰古﹂をモットーとして多くの著作を残した。その他の著作は伝記や散文が主で、その文体は質朴簡潔であるが、おおらかで優雅な面ももつというそれぞれに異なった特色がある。朱元璋は宋濂を評して﹁開国文臣之首﹂︵開国に功のある文臣の首席︶とし、劉基は﹁当今文章第一﹂︵当代随一の文章家︶と賞賛し、当時の様々な学者たちは﹁太史公﹂︵﹃史記﹄の作者司馬遷になぞらえる︶と呼んでいた。著作には﹃宋学士全集﹄・﹃浦陽人物記﹄・﹃洪武聖政記﹄がある。
弟子に明代初期の有名な学者方孝孺がいた。