山崎始男
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山崎 始男︵やまさき もとお、1904年︵明治37年︶3月18日[1][注 1] - 1983年︵昭和58年︶10月9日[1][2][3]︶は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴[編集]
岡山県[2][3]吉備郡総社町[1]︵現総社市︶で、米穀問屋・山崎重の長男として生まれる[1]。岡山中学校︵現岡山県立岡山朝日高等学校︶を経て[1]、1931年︵昭和6年︶慶應義塾大学政治学科を卒業した[1][2][3]。名古屋市において製陶会社で勤務したり[1]木材関係貿易に従事した[3]。1944年︵昭和19年︶に帰郷し会社経営を行う[1]。 1948年︵昭和23年︶初の公選制による岡山県教育委員に選出され、1949年︵昭和24年︶副委員長に就任[1][2][3]。1952年︵昭和27年︶10月、第25回衆議院議員総選挙で岡山県第2区から出馬して初当選[1][2][4]。日本社会党に所属して第26回から第31回総選挙まで連続して再選され[5]、1969年︵昭和44年︶12月の第32回総選挙では次点で落選した[6]。1972年︵昭和47年︶12月の第33回総選挙で再選され[6]、1976年︵昭和51年︶12月の任期満了で政界を引退し[1][2]、衆議院議員に通算8期在任した[1][2][3]。この間、中央青少年問題協議会委員、中国地方開発審議会委員、衆議院産業公害対策特別委員長[1][2]、社会党中央委員、同両院議員総会副会長、同私学振興対策特別副委員長、同中国地方開発副委員長、同岡山県本部執行委員長、同顧問などを務めた[3]。学校給食法︵昭和29年法律第160号︶、日本学校安全会法︵昭和34年法律第198号︶の成立に尽力[1]。また1951年︵昭和26年︶の岡山県知事選挙に、中学校時代からの親友である三木行治を擁立して当選に尽力した[1]。 その他、岡山県美術刀剣協会会長、山陽工業社長、旭輸出敷物社長、平和タクシー会長、全国部落解放運動推進協議会委員、日本民主教育政治連盟岡山県支部長、学校法人川崎学園理事なども務めた[3]。伝記[編集]
- 『山崎始男の生涯』山崎始男追悼誌編集委員会、1985年。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『新訂 政治家人名事典』650頁では明治38年。