山根正次
山根 正次︵やまね まさつぐ、安政4年12月23日 [1]︵1858年2月6日︶ - 大正14年︵1925年︶8月29日︶は、日本の衆議院議員︵中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会︶、医学者。
1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と[2]。前 列左より河本重次郎、山根、田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一[3]。中列左から森林太郎、武島務、中濱東一郎、佐方潜蔵︵のち侍医︶、島田武次︵のち宮城病院産科長︶、谷口謙、瀬川昌耆、北里柴三郎、江口襄[3]。後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙治郎[3]
長門国阿武郡椿郷東分村︵現在の山口県萩市︶出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ[1]。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に任じられた[1]。1885年︵明治18年︶、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。
1887年︵明治20年︶よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ[4]。帰国後は、警察医長、医務局長、警視庁第三部長を歴任した[5]。
1902年︵明治35年︶、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は6回を数えた。また東京市会議員も兼ねた[5]。
さらに、1904年︵明治37年︶に日本医学校︵現在の日本医科大学︶が創設されると、初代校長に就任した。墓所は青山霊園。
経歴[編集]
栄典[編集]
著書[編集]
- 『虎列剌病汎論』(英蘭堂、1887年)
- 『実用検毒学』(誠之堂、1894年)
- 『改良服図説』(伴鶴堂、1902年)
- 『日独比較 改正伝染病予防法論』(清水書店、1906年)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『衆議院要覧下巻 大正七年十二月』衆議院事務局、1918年。
- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 山根正次特旨叙位ノ件(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
外部リンク[編集]