熊谷直太
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Naota_kumagai.jpg/200px-Naota_kumagai.jpg)
熊谷 直太︵くまがい なおた、1866年8月30日︵慶応2年7月21日[1][2]︶ - 1945年︵昭和20年︶2月19日[1][2]︶は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員︵立憲政友会︶。弁護士。弁理士。
経歴[編集]
熊谷直能の長子として出羽国田川郡番田村︵山形県西田川郡稲生村を経て現鶴岡市︶で生まれ[1]、酒田で育った。西田川郡中学校︵現山形県立鶴岡南高等学校︶を卒業し小学校の代用教員となるが[1]、1883年︵明治16年︶ごろ、庄内地方を訪れた馬場辰猪の自由民権を訴える演説を聞き、上京を志した。当時、郡の費用で5人を東京で学ばせることが決まり、その一人に選ばれた。第一高等中学校を経て、1897年︵明治30年︶に東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補として前橋地方裁判所に勤務し、前橋地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、長崎控訴院判事、東京控訴院判事などを歴任した[3]。1905年︵明治38年︶に裁判所を退職して、弁護士・弁理士として活動した[4]。 1912年、第11回衆議院議員総選挙で補欠当選。以後、当選9回を数えた。その間、加藤高明内閣と犬養内閣で司法政務次官を務めた。脚注[編集]
- ^ a b c d 庄内人名辞典刊行会 1986, 268頁.
- ^ a b 国立公文書館 アジア歴史資料センター
- ^ 『代議士詳覧』p72-73
- ^ 『両羽之現代人』p363-366