青山憲三
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青山 憲三 あおやま けんぞう | |
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青山憲三の肖像写真 | |
生年月日 | 1879年9月21日 |
出生地 |
石川県鳳至郡曽福村 (現:鳳珠郡穴水町字曽福) |
没年月日 | 1953年1月27日(73歳没) |
出身校 | 和仏法律学校法律科 |
所属政党 |
(立憲政友会→)(政友本党→) 翼賛政治体制協議会 |
選挙区 |
(石川県第4区→) 石川県第2区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1924年5月10日 - 1936年1月21日 1937年4月30日 - 1945年12月18日 |
選挙区 | 鹿島郡選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1908年9月30日 - 1924年5月 |
青山 憲三︵あおやま けんぞう、1879年︵明治12年︶9月21日[1] - 1953年︵昭和28年︶1月27日︶は、日本の政治家。衆議院議員︵6期︶。
略歴[編集]
1879年︵明治12年︶9月に石川県鳳至郡曽福村の坂本三郎四郎の七男として生まれ、2歳のときに能登島の青山家の養子となる。1901年︵明治34年︶に和仏法律学校︵現・法政大学︶法律科を卒業する。 三等郵便局長、石川県会議員、同県参事会員を経て、1924年︵大正13年︶に第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。以後、第16回、第17回、第18回、第20回、第21回総選挙でも当選した。 1930年︵昭和5年︶五私鉄疑獄事件を通じて収賄容疑で起訴されたが、1933年︵昭和8年︶に東京地方裁判所で無罪判決を受けた[2][3]。 立憲政友会で総務、米内内閣・第2次近衛内閣において内務参与官を務める。 また、中央水産業会会長、帝國水産会副会長、石川県水産連合組合長、石川県出漁協会長、石川県水産振興会長、北陸漁業社長、能登島汽船役員などを歴任した。 戦後は公職追放され、1953年︵昭和28年︶1月27日に死去。親族[編集]
●青山正一 - 長男[4]。参議院議員、北海道開発政務次官。顕彰碑[編集]
石川県に顕彰碑、銅像が建立されている。栄典[編集]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『政治家人名事典 明治-昭和』(日外アソシエーツ、2003)
- 『衆議院議員略歴』(衆議院事務局、1936)
- 『ふるさと人物伝(二)七尾の礎を築いた人々』