山葉寅楠
やまはとらくす 山葉寅楠 | |
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山葉寅楠翁肖像 | |
生誕 |
山羽 寅楠(やまば とらくす)[要出典] 1851年5月20日 紀伊国和歌山城々下(現在の和歌山県和歌山市一番丁) |
死没 |
1916年8月8日(65歳没) 静岡県浜松市(現在の静岡県浜松市中央区) |
国籍 | 日本 |
別名 | 日本楽器製造株式会社創業者 |
出身校 | 不明 |
職業 | 日本楽器製造株式会社代表取締役社長 |
団体 |
医療器具修理エンジニア 合資会社山葉風琴製造所所長 |
受賞 | 緑綬褒章 |
山葉 寅楠︵やまは とらくす、1851年5月20日︵嘉永4年4月20日︶ - 1916年︵大正5年︶8月8日︶は、日本楽器製造株式会社︵現在のヤマハ株式会社︶の創業者。日本における初期のオルガン︵リード・オルガン︶製造者の一人であり、日本のピアノ製造業の創始者の一人でもある。
山葉楽器製造所 オルガン
浜松尋常小学校のオルガンは1887年にアメリカから輸入され寄付されたリードオルガンで45円であったという。山葉は修理の際にこの構造を模写し﹁自分は3円で造る自信がある﹂と言ったという。
当時浜松で飾り職人をしていた河合喜三郎と協力し2ヶ月後にオルガンを完成させたが、浜松の小学校や静岡の師範学校での評価は低かった。そこで東京の音楽取調所︵現東京藝術大学︶までオルガンを運んだ。東海道線が全通していなかった当時、オルガンを担いで徒歩で箱根峠を越えての上京だったという。音楽取調所御用掛・伊澤修二の評価は、﹁調律が不正確﹂というものだった。音階や調律の知識のなかった山葉は1ヶ月かけて音楽取調所で音楽理論を学び、河合喜三郎の私財をもってオルガン第2号を製作した[4]。
1890年に第3回内国勧業博覧会︵上野︶にオルガンを出品し2等賞︵オルガンでは1位、2位は西川虎吉のオルガンであった︶。
来歴・人物[編集]
嘉永4年︵1851年︶4月20日、紀州藩の下級武士だった山葉孝之助の三男として生まれる。父が紀州藩で天文係を務めていたこともあり、幼少の頃から機械いじりが得意であった。また16歳頃には剣術修行に出て、大和の小野派一刀流の師範・澤田孝友のもとで腕を磨いたという[1]。二刀流にも造詣があったという[要出典]。だが、後に職人の道を歩むこととなる。 明治維新後の1871年に長崎に出て英国人のもとで時計の修繕法を学び[2]、その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働いた。1884年から浜松支店に駐在していたが医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理などを請け負っていた。1887年に浜松尋常小学校︵現在の浜松市立元城小学校︶アメリカ製オルガンの修理を手がけたことからその構造を学び[2]、1888年に日本最初の本格的オルガンの製造に成功した。 1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立した。1891年には山葉風琴製造所が出資引き揚げにより解散するが、河合喜三郎らと共同で﹁山葉楽器製造所﹂を設立した。1897年10月12日に資本金10万円で日本楽器製造株式会社︵現ヤマハ︶に改組し初代社長となった。 1899年、アメリカへ5か月間の視察旅行に出た。キンボールやメイソン・アンド・ハムリン、スタインウェイ・アンド・サンズなどを視察し、1900年にアップライトピアノを製作。 1902年3月、緑綬褒章を受章した。浜松鉄道︵後の遠州鉄道奥山線︶の取締役も務めた。河合楽器製作所創始者の河合小市、山葉直吉︵寅楠の養子︶を育てた。 1911年、浜松市会議員当選、浜松市会副議長に就任[3]。 1916年8月8日、死去。享年66︵満65歳没︶。オルガン製造[編集]
エピソード[編集]
●事業に対する姿勢として﹁自分は品物を販売するに掛引をせぬ。生産費を控除して代価を定め決して暴利を貪らぬ、而して品質に対しては絶対的責任を負ぶるを信条として、社会の信用を博する覚悟である﹂と語っていた[5]。親族[編集]
●父・山葉孝之助 - 藩世襲の天文係で、地図の作成・名橋の架設・カラクリ人形の考案といった篤学の技師だった[4]。 ●妻・のぶ︵1864年生︶ - 靜岡県士族・辻高久の三女[6] ●長男・正雄︵1889年生︶ - オルガン開発の多大なる協力者であり、子供のなかった金物加工店・河合喜三郎の養子となる[4]。 ●次男・良雄︵1893年生︶[6] ●長女・静江︵1895年生︶ - 婿養子に順之助︵1886年生。茨城県平民・吉川定吉の長男︶を迎える[6]。 ●次女・幸︵1897年生︶ - 夫の林慶吉 (1886年生、神戸高等商業学校卒)は日本楽器製造、山葉洋行の取締役[7] ●姪の夫・山葉直吉 ●遠縁・椎野秀聰 - 本人談によると椎野の叔父の祖父がヤマハ創業者[8]参考文献[編集]
●牧野輝智著﹃現代発明家伝﹄帝国発明協会、1911年︵国立国会図書館デジタルコレクション︶ 磯部千司編 ﹃山葉寅楠翁﹄ 日本楽器製造株式会社内 山葉寅楠翁銅像建設事務所、1929年、非売品。 ﹃社史﹄ 日本楽器製造株式会社、1977年。脚注[編集]
(一)^ ﹃山葉寅楠翁﹄46頁の榎本瞭之助︵寅楠の甥で日本楽器工場長︶の談話。﹃社史﹄3頁
(二)^ ab“﹁YAMAHAのコピペ﹂ってどこまで本当なの? ヤマハ本社に聞いてきた”. i:Engineer 〜だからエンジニアっていいよね〜. パーソルテクノロジースタッフ. 2020年6月25日閲覧。
(三)^ ﹃山葉寅楠翁﹄14頁
(四)^ abc栗岡久幸、黒済晃﹁ヤマハの歴史と経営システムの変遷からみた企業文化と記録管理(コンプライアンスのための記録管理,<特集>2007年研究大会)﹂﹃レコード・マネジメント﹄第54巻第0号、記録管理学会、2007年、41-48頁、doi:10.20704/rmsj.54.0_41、ISSN 0915-4787、NAID 110006570500。
(五)^ ﹃山葉寅楠翁﹄22頁の井上剛一︵代議士︶の談
(六)^ abc山葉寅楠﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
(七)^ 林慶吉﹃人事興信録﹄第8版 [昭和3(1928)年7月]
(八)^ ベスタスク社主 椎野秀聰ペンチャー座