岡本潤
おかもと じゅん 岡本 潤 | |
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本名 | 岡本 保太郎 |
生年月日 | 1901年7月5日 |
没年月日 | 1978年2月16日(76歳没) |
出生地 |
日本 埼玉県児玉郡本庄町 (現在の同県本庄市) |
職業 | 詩人、脚本家 |
活動期間 | 1923年 - 1978年 |
岡本 潤︵おかもと じゅん、1901年7月5日 - 1978年2月16日︶は、日本の詩人、脚本家である。本名-保太郎。
人物・来歴[編集]
1901年︵明治34年︶7月5日、埼玉県児玉郡本庄町︵現在の同県本庄市︶に岡本保太郎として生まれる[1]。 1906年︵明治39年︶ごろ両親が離婚し、母とともに、京都に住む母方の祖父に引き取られる。旧制・深草尋常高等小学校︵現在の京都市立深草小学校︶に入学するが、4年を終了した時点で本庄に帰る。1年後に京都に戻り、旧制・平安中学校︵現在の龍谷大学付属平安中学校・高等学校︶に入学した。卒業後上京し、中央大学、東洋大学にそれぞれ入学し、いずれも中途退学した[1]。 大杉栄、クロポトキンらのアナキズムに共鳴、19歳になる1920年︵大正9年︶、同年に結成された日本社会主義同盟に参加した。このころ詩作を始める。1922年︵大正11年︶に結婚、1923年︵大正12年︶、前衛詩運動に参加、壺井繁治、萩原恭次郎、川崎長太郎らと詩誌﹃赤と黒﹄を創刊する[1]。 1928年︵昭和3年︶、第1詩集﹃夜から朝へ﹄を刊行、1933年︵昭和8年︶、第2詩集﹃罰当りは生きている﹄を刊行したが、発禁処分・押収となった。1935年︵昭和10年︶11月、治安維持法違反容疑逮捕、翌年2月に釈放されるまで拘留された。1936年︵昭和11年︶1月、京都のマキノ正博によるマキノトーキー製作所の陣容が発表になったが、岡本は松山英夫、中川信夫、坂田重則らとともに﹁企画部﹂メンバーに名を連ねている[2]。同社理事の笹井末三郎もまたアナキストであった[2]。脚本を書いたが、当時のペンネームは不明である。同社は1937年︵昭和12年︶4月には解散した[2]。 1940年︵昭和15年︶、花田清輝らと﹃文化組織﹄を創刊[1]、1941年︵昭和16年︶、第3詩集﹃夜の機関車﹄を刊行する。1942年︵昭和17年︶、大映多摩川撮影所︵現在の角川大映スタジオ︶に勤務した。 1945年︵昭和20年︶8月15日、第二次世界大戦が終結、同年12月27日に公開された田中重雄監督の﹃犯罪者は誰か﹄の脚本家として、﹁岡本潤﹂とクレジットされた。1947年︵昭和22年︶、アナキズムから共産主義に突然転向した[1]。 しかし1950年︵昭和25年︶に連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、岡本も追放者としてリストアップされた[3]。 1978年︵昭和53年︶2月16日、死去した[1]。満76歳没。おもなフィルモグラフィ[編集]
- 脚本
ビブリオグラフィ[編集]
- 詩集『夜から朝へ』、1928年
- 詩集『襤褸の旗』、1947年
- 『岡本潤全詩集』、1978年