岩倉城 (尾張国)
表示
岩倉城 (愛知県) | |
---|---|
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 織田敏広(織田信安?) |
築城年 | 文明11年(1479年)ごろ |
主な城主 | 織田敏広、寛広、信安、信賢 |
廃城年 | 永禄2年(1559年) |
遺構 | 堀址、石碑 |
指定文化財 | 岩倉市指定史跡 |
位置 | 北緯35度16分30.8秒 東経136度52分38.16秒 / 北緯35.275222度 東経136.8772667度座標: 北緯35度16分30.8秒 東経136度52分38.16秒 / 北緯35.275222度 東経136.8772667度 |
地図 |
岩倉城︵いわくらじょう︶は、尾張国丹羽郡岩倉︵現愛知県岩倉市下本町︶にあった日本の城。岩倉市指定史跡[1]。
概要[編集]
文明11年︵1479年︶頃、﹁織田伊勢守家﹂当主の織田敏広︵または織田信安の代とも︶によって築城されたといわれる。 この城を拠点として﹁織田伊勢守家﹂︵岩倉織田氏︶は尾張上四郡を支配し、尾張守護所が置かれた清洲城を拠点として尾張下四郡を支配した﹁織田大和守家﹂︵清洲織田氏︶に対し、武威を示して当時の尾張では清洲城と並び、重要な城であった。 弘治2年︵1556年︶、稲生の戦いで城主織田信安が、﹁織田弾正忠家﹂当主の織田信長の弟で末森城主織田信行︵信勝︶に味方したため、信長と対立した。その後、永禄元年︵1558年︶、浮野の戦いで信安の跡を継いだ嫡男信賢は敗れ、翌永禄2年︵1559年︶3月、岩倉城に篭城するも、信長に攻撃されて岩倉城は落城した。 また一説に、岩倉落城は永禄元年︵1558年︶とする説もある[2]。 標高10メートルの低い台地上に築かれた平城で、東西約104メートル、南北169メートルの規模であり、南方の小田井城と相対していた[3]。現在の本丸跡には﹁岩倉城址﹂と﹁織田伊勢守城址﹂の碑がある。後者の碑は安政7年︵1860年︶に建てられたもの。なお二重の堀で囲まれた城だったらしい。構造[編集]
発掘調査により、五条川の右岸において幅約10メートルと幅約23メートルの堀が各2条ずつ発見され、それぞれ外堀と内堀であると推定される[4]。さらに内堀に囲まれた区画からは3条の区画溝が存在し、東西約43メートルの区画があることが分かった[4]。この場所には井戸や人工的な穴が多数発見され、土師器皿や質の高い中国製の陶磁器が多数出土したため、岩倉城の中心部であったことが推定される。また、焼土面も見つかり、織田信長に焼き討ちにされた痕跡と推定される[4]。 五条川左岸からも3条の堀と出土品が発見されたので、左岸にも岩倉城の関連施設があったことが推定される[4]。 地籍図の分析からは、南北約900メートル東西約400メートルの規模で武家屋敷や市町が存在した分かる[4]。アクセス[編集]
脚注[編集]
(一)^ ﹁岩倉の文化財を探そう︵史跡︶﹂岩倉市公式HP
(二)^ 高澤等﹃新・信長公記﹄によれば、永禄2年は信長が年初から2月にかけて上洛しており、2~3ヶ月の攻囲の後、3月に落城したとする﹃信長公記﹄と齟齬が生じるとし、山内一豊の父山内盛豊の墓碑の年号から浮野の戦いを弘治3年︵1557年︶、岩倉落城を永禄元年︵1558年︶、上洛が永禄2年︵1559年︶との説を立てている。
(三)^ ﹃日本城郭大系﹄ 9巻、新人物往来社、1979年、309頁。
(四)^ abcde中井均 鈴木正貴 竹...">中井均 鈴木正貴 竹田憲治 (2020/03/10) (日本語). 東海の名城を歩く 愛知・三重編 (初版 ed.). Tōkyō: 吉川弘文館. p. 34-36. ISBN 978-4-642-08366-9. OCLC 1142727586</re
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 「岩倉の文化財を探そう(史跡)」岩倉市公式HP