島惟精
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島 惟精︵しま いせい︶1834年5月9日︵天保5年4月1日︶ - 1886年︵明治19年︶5月11日︶は、幕末の府内藩士、明治期の内務官僚、政治家。初代岩手県令、元老院議官。通称は唯蔵。
経歴[編集]
豊後国大分郡千歳において延岡藩代官・阿南胖助の二男として生まれ、府内藩医・安東芳庵の養子となり、のち島姓を名乗った。佐藤龍之進に漢学を学び、広瀬淡窓、塩谷宕陰の塾に入る。さらに昌平黌で学ぶ。京都で志士と交わるなどして帰郷し、藩校遊焉館︵大分市立荷揚町小学校の前身︶の儒官となる。勤王論者として活動したため、幕府に捕えられ入獄した。その後、脱獄して藩政顧問となり、府内藩の藩論を勤皇に統一することに貢献した。 維新後、新政府に出仕し、明治2年︵1869年︶弁官御雇となる。 若松県判事、同大参事を経て、明治3年︵1870年︶、民部権少丞兼大蔵権少丞に就任。明治4年︵1871年︶に盛岡県参事に転じ、盛岡県令、岩手県参事、岩手県権令、岩手県令を歴任。1884年︵明治17年︶2月、内務省土木局長に転じ、参事院議官を経て、1885年︵明治18年︶7月、茨城県令に就任。1886年︵明治19年︶5月8日、元老院議官に発令されたが、同月11日に死去した。墓所は青山霊園。家督は養子の島文次郎が継いだ。参考文献[編集]
●上田正昭他﹃日本人名大辞典﹄講談社、2001年。 ●﹃日本人名大事典﹄第3巻、平凡社、1979年︵﹃新撰大人名辞典﹄︵昭和12年刊︶の改題複製︶。 ●﹃日本の歴代知事 第1巻﹄歴代知事編纂会、1980年。 ●﹃幕末維新人名事典﹄新人物往来社、1994年。公職 | ||
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先代 野田親孝 大参事 |
盛岡県参事 1871年 - 1872年 |
次代 (岩手県に改称) |