嶋崎重和
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嶋崎 重和 | |
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生誕 |
1908年9月9日 日本 奈良県奈良市 |
死没 |
1945年1月9日(36歳没) 日本 台湾とフィリピン間沖 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1929 - 1945 |
最終階級 | 海軍少将 |
嶋崎 重和︵しまざき しげかず、1908年︵明治41年︶9月9日 - 1945年︵昭和20年︶1月9日︶は、日本の海軍軍人。空母﹁瑞鶴﹂飛行隊長として真珠湾攻撃で第二次攻撃隊長を務めた。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将。
略歴[編集]
本籍は大分県。鉄道局技師・澤重元の三男として奈良市で生れ、嶋崎家の養子となる。上野中学校(現・三重県立上野高等学校)、愛知県岡崎中学校︵現・愛知県立岡崎高等学校︶を経て[1]、1929年︵昭和4年︶3月、海軍兵学校︵第57期︶を卒業。1930年︵昭和5年︶12月、海軍少尉任官。 高橋赫一の薦めにより、高橋の妻の妹と結婚する。 1932年︵昭和7年︶12月から翌年7月まで、第23期飛行学生として訓練を受けた。 1935年︵昭和10年︶10月、空母﹁加賀﹂分隊長となり、霞ヶ浦海軍航空隊・空母﹁蒼龍﹂・横須賀海軍航空隊の各分隊長を経て、1939年︵昭和14年︶6月、練習航空隊高等科学生となる。同年11月、空母﹁赤城﹂分隊長に着任。 1940年︵昭和15年︶11月、海軍少佐に昇進し、霞ヶ浦空飛行隊長に就任。第14航空隊飛行隊長を経て、1941年︵昭和16年︶9月、空母﹁瑞鶴﹂飛行隊長に異動し、太平洋戦争を迎え、12月8日の真珠湾攻撃において第二次攻撃隊長として参戦した。26日、昭和天皇へ真珠湾攻撃の軍状奏上を行う。 1942年︵昭和17年︶8月、名古屋海軍航空隊飛行長となり、横須賀空飛行隊長、第752航空隊飛行長を歴任。 1944年︵昭和19年︶10月、海軍中佐に進み第2航空艦隊参謀に就任した。 1945年︵昭和20年︶1月8日、第3航空艦隊司令部付となり、翌日、台湾への移動の途中で行方不明となり、戦死と認定された。同年末、戦死時にさかのぼって二階級特進し、海軍少将に任ぜられた[2]。 戦死後の二階級特進ではあるものの、真珠湾攻撃参加搭乗員で最も階級が高くなったのが嶋崎であった。親戚[編集]
澤重民︵血縁上の実兄︶ 高橋赫一︵義兄︶脚注[編集]
- ^ 『岡高同窓会名簿 1986』 愛知県立岡崎高等学校同窓会長、1986年10月1日、37頁。
- ^ 昭和20年12月4日付 第二復員省辞令公報 甲 第3号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072157700 で閲覧可能。