市川小團次 (4代目)
四代目 市川小団次 | |
阿漕平治を演じる小團次 。三代歌川豊国筆。 | |
屋号 | 高島屋 |
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定紋 | 三升 |
生年月日 | 1812年 |
没年月日 | 1866年6月20日 |
襲名歴 | 1. 三代目市川米蔵 2. 初代市川米十郎 3. 四代目市川小團次 |
俳名 | 米升 |
出身地 | 伊豆国賀茂郡見高村 |
父 | 谷沢三之助 |
母 | 桜井かね |
子 | 初代市川右團次 五代目市川小團次 |
四代目 市川 小団次︵いちかわ こだんじ、旧字体‥市川 小團次󠄁、文化9年︵1812年︶1月 - 慶応2年5月8日︵1866年6月20日[1]︶︶は幕末の歌舞伎役者。幼名は榮太︵えいた︶、また榮次郞︵えいじろう︶とも。俳名は米升[1]。屋号は高島屋[1]。定紋は三升。市川小団次の中では一番著名とされる[2]。
1856(安政3)年市村座﹁松竹梅雪曙﹂ 人形振りで八百屋お七 を演じる小団次 三代目豊国作(1856年︶﹃網模様灯篭菊桐﹄︵小猿七之助︶ の 小猿七之助 1857年︵安政4年7月︶ 市村座
●﹃小袖曾我薊色縫﹄︵十六夜清心︶ の 清心のち鬼薊清吉 1859年︵安政6年1月︶ 市村座
●﹃三人吉三廓初買﹄︵三人吉三︶ の 和尚吉三・文里 1860年︵安政7年1月︶ 市村座
●﹃加賀見山再岩藤﹄︵骨寄せの岩藤︶の 岩藤・鳥居又助 1860年︵安政7年3月︶ 市村座
●﹃勧善懲悪覗機関﹄︵村井長庵︶ の 村井長庵・久八 1862年︵文久2年8月︶ 守田座
●﹃曾我綉侠御所染﹄︵御所の五郎蔵︶の 五郎蔵・百合の方 1864年︵文久4年2月︶ 市村座
などがある。
これらの作品には、当時の騒然とした世相を反映して、白浪物が特に多い。小団次は盗賊を次から次へとつとめたことから﹁白浪役者﹂、果ては﹁泥棒小団次﹂などとあだ名されたほどだった。しかしそうした盗賊も大泥棒でなく、市井の片隅に生きる人間くさい盗賊だった。研究熱心な小団次はさまざまな工夫を凝らし、名もない人々の喜怒哀楽を心迫の演技でつとめた。彼が愁嘆場で熱演のあまり泣出すと観客までももらい泣きをするほどだったという。黙阿弥はそんな小団次の柄に合うように優れた作品を作った。
また、旧作では﹃勧進帳﹄の富樫や﹃敵討天下茶屋聚﹄の弥助・元右衛門、﹃義経千本櫻・吉野山﹄の狐忠信、﹃絵本太功記﹄の光秀、﹃菅原伝授手習鑑・寺子屋﹄の松王丸などを得意とし、﹃伊達娘恋緋鹿子︵櫓のお七︶﹄では娘役の八百屋お七を人形振りで演じ、その可憐さに観客を驚嘆させた。
舞踊の技能や早替り宙乗りなどのケレンにとどまらず、立役・老役・女形・敵役などどんな役でもこなす演技力をつけていた。当時の流行歌には﹁にがほは豊国、やくしやは小団次 ハイヨ とうじさくしやは みなさん、川竹、ひいきはたいそ、たいそ﹂とあり、役者絵の三代目歌川豊国・作家の黙阿弥・役者の小團次は、江戸っ子の人気を集めた時の御三家的存在だったことが伺われる。
後進の指導にも熱心で、九代目市川團十郞、五代目尾上菊五郎、七代目市川團藏など明治の名優は多かれ少なかれ小団次の影響を受けているといって差し支えない。
四代目歌川豊国作﹁俳優楽屋の姿見﹂(1864年︶楽屋で打ち合わせ する小団次(中央︶左は二代目河竹新七︵のち黙阿弥︶右は四代目清元延寿太夫
性格は謹厳実直で、質素な服装を通し、道行く誰にでもきちんと被っていた笠を脱いで挨拶をした。楽屋でも渋面をして布団も敷かずに正座しつづけており、実子の行儀が悪いと横面を張り飛ばしたというほどであった。癇が強く、最期を早めたのもそのせいではないかと見られる。
少年時代から苦難を体験してきたので、自然と内向的な性向になった。
妻のお琴は男勝りの女傑で、よく家をまとめ、夫の成功に尽くし息子たちを一人前の役者に育て上げた。小団次は帰宅するといつも舞台の鬱憤を家人にぶつけて八つ当りする。しかし面と向かって注意する事もできず、みなで困っていた。思い余ったお琴はある日、小団次の眼前で顔色ひとつ変えずに夫が大事にしていた鉢植えを叩き割る。さすがの小団次もこれには参り、すごすごと引き下がったという。お琴にはこうした女丈夫の逸話が多く、﹁国定忠次の妾﹂などと噂されていたという。
出生の河津町見高神社には小団次、左団次、子団次寄贈の引幕と、小団次直伝と言われる三番叟が残る[3]。