平山藤次郎
平山 藤次郎︵ひらやま とうじろう、1851年︵嘉永4年8月︶ - 1910年︵明治43年︶5月11日[1]︶は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。商船学校長。
平山藤次郎
経歴[編集]
阿波徳島藩士。江戸三田小山の藩邸に生まれる[2]。慶應義塾に学び後に攻玉社に移り[2]、1870年︵明治3年︶海軍兵学寮︵1期︶に入学。1期生は平山と森又七郎の2人だけだった。1873年︵明治6年︶頃に卒業して少尉補に任ぜられた[2]。 同年より清国航海。1874年︵明治7年︶少尉に進み筑波に乗船し台湾、清、サンフランシスコ及びハワイ等に就航し、また日本環海を成した[2]。西南戦争で功あり、太政官より金五十円を下賜される。その後オーストラリアに赴き帰朝後中尉へと進み、1883年︵明治16年︶に大尉、1885年︵明治18年︶に少佐、1889年︵明治22年︶大佐へと昇進した[2]。﹁乾行﹂乗組兼兵学校勤務の後、摂津艦艦長、﹁筑波﹂艦長、﹁天城﹂艦長、﹁葛城﹂艦長を経て、日清戦争で﹁八重山﹂艦長などをつとめる[2]。 1895年︵明治28年︶10月、日本領となった台湾において、抵抗した中国人がイギリス商船﹁テールス号﹂に逃げたため、﹁八重山﹂がこれを追跡して臨検を行うという事件が起きた。これが公海上で行われたことからイギリスから抗議を受け、外務省は海軍に対して責任者の処罰を要求した。その結果、艦長の平山と上司の常備艦隊司令長官・有地品之允海軍中将を予備役に編入することで解決が図られた。 1896年︵明治29年︶商船学校長。1905年︵明治38年︶10月19日、後備役となり[3]、1909年︵明治42年︶8月15日に退役した[4]。栄典・授章・授賞[編集]
- 位階
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従五位[5]
- 1897年(明治30年)8月20日 - 正五位[6]
- 1903年(明治36年)7月10日 - 従四位[7]
- 1908年(明治41年)8月20日 - 正四位[8]
- 勲章等
- 1887年(明治20年)5月27日 - 勲六等単光旭日章[9]
- 1895年(明治28年)9月27日 - 旭日小綬章・功四級金鵄勲章[10]
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[11]
- 1908年(明治41年)6月25日 - 勲二等瑞宝章[12]
- 外国勲章佩用允許
- 1894年(明治27年)2月20日 - オーストリア=ハンガリー帝国:星章飾付フランソワジョゼフ第二等勲章[13]
脚注[編集]
(一)^ ﹃官報﹄第8067号、明治43年5月16日。
(二)^ abcdef楓仙子﹁平山藤次郎君﹂﹃帝国軍人亀鑑﹄東雲堂、1895年9月、211-215頁。全国書誌番号:40003115。
(三)^ ﹃官報﹄第6694号、明治38年10月20日。
(四)^ ﹃官報﹄第7843号、明治42年8月16日。
(五)^ ﹃官報﹄第2541号﹁叙任及辞令﹂1891年12月17日。
(六)^ ﹃官報﹄第4242号﹁叙任及辞令﹂1897年8月21日。
(七)^ ﹃官報﹄第6007号﹁叙任及辞令﹂1903年7月11日。
(八)^ ﹃官報﹄第7547号﹁叙任及辞令﹂1908年8月21日。
(九)^ ﹃官報﹄第1174号﹁叙任及辞令﹂1887年5月31日。
(十)^ ﹃官報﹄第3676号﹁叙任及辞令﹂1895年9月28日。
(11)^ ﹃官報﹄第5098号﹁叙任及辞令﹂1900年7月2日。
(12)^ ﹃官報﹄第7499号﹁叙任及辞令﹂1908年6月26日。
(13)^ ﹃官報﹄第3193号﹁叙任及辞令﹂1894年2月22日。
参考文献[編集]
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、889-890頁 。(近代デジタルライブラリー)