乾行 (砲艦)
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乾行 | |
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基本情報 | |
建造所 | (イギリス・リバプール)[1] |
艦種 | 砲艦[2] |
建造費 | 購入金額:75,000ドル[1] |
艦歴 | |
竣工 | (1859年[1][3])[注釈 1] |
就役 |
元治元年7月23日(1864年8月24日)薩摩藩受領[1] 明治3年6月13日(1870年7月11日)兵部省受領[4] |
除籍 | 1881年9月12日[5] |
その後 | 1889年3月売却[5] |
要目 | |
排水量 | 523英トン[2][3][注釈 2] |
トン数 | 164トン[1] |
長さ |
177 ft (53.95 m)[3] 船首材から船尾材まで:150 ft (45.72 m)[6] 甲板長:165 ft (50.29 m)[6] |
幅 |
23 ft 4 in (7.11 m)[3] 上甲板幅:26 ft (7.92 m)[6] |
水線幅 | 25 ft 5 in (7.75 m)[6] |
深さ | キール上端から上甲板ビーム上端まで:12尺5寸[6](約3.79m) |
吃水 | 前部:6 ft 9 in (2.06 m)、後部:9 ft 9 in (2.97 m)[6] |
ボイラー | 角缶 2基[7] |
主機 | 2気筒横置レシプロ 1基[7] |
推進 | スクリュー[7] |
出力 | 120馬力[8][7]、または150馬力[2] |
帆装 | 3檣バーク型[2] |
航続距離 | 燃料消費:石炭8,000斤/日[6] |
乗員 |
1874年時総員:83名[9] 1879年時定員:144名 |
兵装 |
砲 6門[1] 1874年時:砲無し[10] |
搭載艇 | 1873年時:4隻[11] |
その他 | 船材:木[1](チーク[6]) |
乾行︵けんこう[12] / 旧仮名‥けんかう[5]︶は日本海軍の軍艦[13]。元薩摩藩所有の3檣バーク型砲艦[2]。
乾行は﹁正道に従ってすこやかに努め行う﹂意味で、﹃易経﹄にある﹁渉大川乾行也﹂︵大川を渉︵わた︶るや乾行なり︶の句に由来する[12]。
概要[編集]
原名﹃ストーク﹄(Stoyk) を薩摩藩が元治元年︵1864年︶に購入し、"乾行丸"と命名された[12]。戊辰戦争では寺泊沖海戦に参加し、旧幕府運輸船 "順動丸" を擱座・自焼に追い込む[12]。薩摩藩から新政府へ献納され、明治3年6月13日︵1870年7月11日︶に兵部省が受領、"乾行艦" と呼ばれた[12]。明治5年︵1872年︶から翌年にかけて機関が撤去され[14]、以降は練習艦として使用された。1881年︵明治14年︶9月12日に除籍、1889年︵明治22年︶3月に船体が売却された[5]。艦型[編集]
3檣バーク型砲艦[2]。機関は横置2筒機関で推進はスクリュープロペラだった[7]。機関は1872年︵明治5年︶から翌年にかけて撤去された[14]。 右上表の要目は主に﹃薩藩海軍史﹄[6]と﹃帝国海軍機関史﹄[3]による。その他の文献による船体主要寸法は以下の通り。 ●明治元年﹃公文類纂﹄‥長さ27間[8] (49.09m) ●﹃日本近世造船史 明治時代﹄‥長さ177 ft (53.95 m)、幅23 ft (7.01 m)、吃水10 ft (3.05 m)[2]イギリス軍艦ビーグル[編集]
元はイギリス海軍のアロー級砲艦 "ビーグル" (HMS Beagle)[15]とされる[12]。但し、"ビーグル" の建造はロンドンで1854年に竣工と日本側の"乾行" のデータと一致しない部分がある。 ﹃海軍歴史﹄その他ではリバプールで1859年建造の﹃ストーク︵ストルク︶﹄とされている[1]。また﹃帝国海軍機関史﹄では﹁原名 ”ビーグル"、後に﹃ストーク﹄とあり[3]、通常上記の "Beagle" とされている[12]。建造年に関しては日本でも疑問が投げかけられており、﹁1854年から翌年にイギリス艦としてクリミヤ戦争に参戦し、船体に当時の弾痕が残されていた﹂ので建造はそれより古いとの意見があった[3]。また別に﹁クリミア戦争前にイギリスで建造された十数隻のうちの1隻﹂ともする[3]。 なおダーウィンの乗船した "ビーグル号" が後に本艦となったという話もある[5]が、年代が違い明らかな間違いである[12]︵ダーウィンの乗艦は3代目の﹃HMSビーグル﹄で、乾行は4代目 "HMSビーグル"︶[15]。 ﹃薩藩海軍史﹄によると、"ストーク" は1859年出版の﹃世界の海軍﹄に﹁60馬力、砲20門﹂と既に記載があるという[6]︵建造はこの年以前になる︶。また﹃ビーグル﹄は﹃世界の海軍﹄に﹁1854年製造、477噸、160馬力、砲4門﹂で載っており、"ビーグル" の方が﹃乾行﹄に近いとしている[6]。艦歴[編集]
日付は明治5年まで旧暦とする。薩摩藩時[編集]
原名は "ビーグル"、後に "ストーク"[3]。薩摩藩がグラバーから75,000ドルで購入[12]、元治元年︵1864年︶7月23日に長崎で受領した[1]。 慶応3年︵1867年︶11月の島津忠義上京の時、"乾行丸" は修理中だった[16]。戊辰戦争[編集]
戊辰戦争では "丁卯丸" と共に北陸方面に進攻した[12]。慶応4年︵1868年︶3月18日鹿児島を出港、3月22日、長崎に寄港し、兵器等の準備を行い4月1日に出港、4月4日兵庫に到着した[16]。閏4月5日、三田尻に回艦し、長州藩軍艦と合議し、新政府軍応援の内命を受けた[16]。一旦兵庫に戻った﹃乾行丸﹄は閏4月14日に三田尻に到着、閏4月15日に下関着、"丁卯丸" と進攻の打ち合わせをした[16]。5月13日に "丁卯丸"、﹃大鵬丸﹄と共に下関を出港、翌日隠岐島に入港し、同地の擾乱を平定した[16]。 5月16日、3隻は敦賀港着、以降輪島、蛸島、越後今町を経由して5月22日に柏崎に到着した[17]。同地を﹃丁卯丸﹄と同日発、陸上進軍の支援を行い、5月24日に出雲崎着、外輪船を砲撃、擱座させた[17]︵寺泊沖海戦︶。この船は旧幕府側の "順動丸" で、自焼して失われた[12]。その後は5月26日に柏崎発、七尾港、小木港、新潟港と移動し、6月3日に柏崎に戻った[17]。この時は石炭が底をつき、薪を燃料にした[17]。6月11日に七尾着、ボイラー下の船体が焦げており、同地で修理に従事した[17]。新潟の陸上戦闘は苦戦しており、軍艦の応援が必要だったため、"乾行丸" の石炭は全て﹃丁卯丸﹄に移し、"丁卯丸" は2、3日の行動が可能になった[18]。 7月16日、"摂津丸" が七尾に入港、同艦は砲が破損していたため、"乾行丸" の砲4門と弾薬を移設、乗員24名も﹃摂津丸﹄に移乗した[19]。7月25日、松ヶ崎で陸兵上陸の援護、7月27日、28日は陸兵と共同で新潟を攻撃し、陥落させた[19]。この戦闘で﹃乾行丸﹄は陸上砲台からの砲弾2発を被弾した[19]。戦闘後は七尾に回航した[19]。8月11日、交代の "春日丸" が新潟に到着、"乾行丸" は8月26日、七尾を出港し帰国の途に就いた[19]。 鹿児島では藩主上京の任に着いた[19]。10月21日、横須賀に回航、以降同地で修理に従事した[20]。鹿児島への帰港日等は不明[20]。献艦[編集]
明治2年︵1869年︶9月、薩摩藩から献納の申し出があり、10月に民部省から郵船に使用したいと申し出があった[21]。 明治3年︵1870年︶6月13日、兵部省が品川湊で受領した[4]。﹃海軍省報告書﹄では明治3年4月に鹿児島藩から献上されたとしている[22]。維新後[編集]
明治3年︵1873年︶7月に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日に小艦隊3隊を編成、"甲鉄" と﹃乾行﹄の2隻は中島四郎︵﹃甲鉄﹄に乗艦︶の指揮で横浜港に派遣され[23][24][25]、"乾行" は8月9日に品川湊から横浜に回航した[26]。9月1日、一旦品川に戻り、同地で大砲備え付けの達が出された[27]。翌明治4年︵1871年︶3月7日に警備は解かれた[28]。 明治4年︵1871年︶5月に小艦隊が編成され、"乾行" も編入[29]、 真木長義中佐が "日進"﹃甲鉄﹄"乾行" "第二丁卯"4隻の指揮役になった[30]。"乾行" は7月に艦隊から除かれた[31]。11月15日、"乾行" は等級を五等と定められた[32]。 明治5年︵1872年︶2月29日、造船局の所轄となった[20]。5月18日に中艦隊が編成されたが﹃乾行﹄は編入されなかった[33]。以降中艦隊への編入は無い[34]。6月10日に兵学寮から"乾行" を機関撤去の上、稽古用︵練習艦︶に使用したいと申し出があり[35]、造船局で機関の撤去と修理を行った[14]。なお、撤去された機関は1876年︵明治9年︶に鹿児島造船所へ移された[36]。 1873年︵明治6年︶2月2日、"乾行" は主船寮所轄から提督府所轄になったが[37]、3月13日に主船寮所轄に戻された[38][39]。11月12日、修理が完成し、主船寮から兵学寮に引き渡された[40][注釈 3]。 1874年︵明治7年︶5月30日、海軍省の堀内に回航[41]、堀内で練習艦として使用された[42]。8月8日、艦位︵等級︶を五等艦と定められた[20][43][44]。 1875年︵明治8年︶5月18日、艦位を四等と改められた[38][45][46]。1880年︵明治13年︶1月20日、繋泊練習艦に定められた[47][3]。廃艦[編集]
1881年︵明治14年︶9月12日に除籍︵廃艦[43]︶、船体は現状のまま "摂津艦" 附属となった[5][48]。1882年︵明治15年︶7月8日、船体は東海鎮守府所轄となり、浦賀永泊となった[5][49]。1889年︵明治22年︶1月19日に売却が上申され[50]、1月25日認許[51]、3月に3,276円で売却された[52]。艦長[編集]
- 伊東祐麿:明治 3年(1870年)3月 - 明治 3年(1870年)10月[53]
- (代理) 伊東祐亨 一等士官:明治3年(1870年)11月 - 1871年3月29日[54]
- (艦長代)柴精一:明治4年2月17日[55] -
- 濱武槇(浜武慎) 兵学小教授兼少佐:1873年12月12日[20][56] - 1877年10月31日[57]
- 大村松次郎 少佐:1877年10月31日 - 1878年5月18日[57]
- 濱武槇 少佐:1878年11月22日[57] -
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ #機関史(1975)上巻、pp.465-466でも建造年には疑問が出されている。
- ^ #近世帝国海軍史要(1974)p.883によると522噸。
- ^ #薩藩海軍史(下)p.1173では12月13日引渡としている。
出典[編集]
(一)^ abcdefghi#海軍歴史23船譜(1)画像8
(二)^ abcdefg#造船史明治(1973)p.130
(三)^ abcdefghij#機関史(1975)上巻pp.465-466、乾行
(四)^ ab#M3公文類纂10/乾行艦受取の式画像1。#M3公文類纂10/乾行艦へ物品渡方画像1。
(五)^ abcdefg浅井 1928, pp. 25–26、乾行 けんかう kenkô
(六)^ abcdefghijk#薩藩海軍史(下)pp.1163-1168
(七)^ abcde#機関史(1975)別冊表1
(八)^ ab#M1公文類纂/蒸気軍艦届(1)画像39
(九)^ #M7公文類纂13/管轄(2)画像36、上士官9人、下士14人、卒63人
(十)^ #M7公文類纂13/管轄(2)画像44-48、各艦内ノ砲銃及其種類幾許
(11)^ #M6公文類纂16/甲4套大日記 兵学寮申出 乾行艦附属端船御渡方画像1
(12)^ abcdefghijk﹃聯合艦隊軍艦銘銘伝﹄pp.194-195
(13)^ #近世帝国海軍史要(1974)p.883
(14)^ abc#M5公文類纂25/乾行兵学寮稽古用御渡方3画像1
(15)^ ab“How the ship, HMS Beagle, got her name.”. AboutDarwin. 2012年3月20日閲覧。
(16)^ abcde#薩藩海軍史(下)p.1169
(17)^ abcde#薩藩海軍史(下)p.1170
(18)^ #薩藩海軍史(下)pp.1170-1171
(19)^ abcdef#薩藩海軍史(下)p.1171
(20)^ abcde#薩藩海軍史(下)p.1172
(21)^ #M2公文類纂/日比忠兵衛和泉丸乗組画像3、﹁一乾行丸
右ハ薩州献艦御受取相成候処郵船ニ相用便利ニ御坐候間当省ヘ引渡相成候様兵部省ヘ御達之儀有之度仕度候也
十月 民部省 弁官御中
付紙 伺之通被 仰付候事﹂
(22)^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年4月。
(23)^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治3年7月28日(太政官)。
(24)^ #機関史(1975)上巻p.290
(25)^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
(26)^ #M3公文類纂10/龍驤外三艦出艦画像1
(27)^ #M3公文類纂9/乾行艦品海へ回艦画像1、﹁九月二日 乾行艦昨朔日品港ヘ回艦相成候ニ付大砲備附之事武庫司ヘ相達シ候事 右乾行艦回着之届ハ川村大丞ヨリ口達ニテ申出候也﹂
(28)^ #海軍制度沿革8(1971)p.33、明治4年3月7日(御沙汰)諸港守備ノ軍艦ヲ解クノ件﹁兵部省 諸港守衛トシテ出張之軍艦解備被仰付候間帰艦之儀其省ヨリ可相達候事﹂
(29)^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治4年5月。
(30)^ #M1-M9海軍省報告書画像17、明治4年5月。
(31)^ #M4公文類纂11/乾行鳳翔差替指揮画像1、﹁日進甲鉄乾行第二丁卯四巻指揮被仰付置候処乾行艦廃艦ニ付更ニ鳳翔艦差加候間指揮可致此段相達候也 辛未七月廿八日 兵部省 真木海軍中佐殿 別紙差添鳳翔艦ニ相達同艦兵庫港在艦ニ付加茂権少録ヘ相托ス﹂
(32)^ #海軍制度沿革8(1971)p.58、明治4年11月15日(兵部省146)﹁諸艦等級ヲ定ムルノ件﹂(妙録)
(33)^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治5年5月18日。
(34)^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.7-8。
(35)^ #M5公文類纂25/乾行兵学寮稽古用御渡方1画像1
(36)^ #M9公文類纂11/乾行艦機械を鹿児島へ運漕画像1-2
(37)^ #M1-M9海軍省報告書画像37-38、明治6年2月。
(38)^ ab#薩藩海軍史(下)p.1173
(39)^ #M1-M9海軍省報告書画像38-39、明治6年3月。
(40)^ #M6公文類纂16/兵学寮届 乾行艦主船寮より引渡画像1。#M6公文類纂16/主船寮届 乾行艦主船寮より引渡画像1。
(41)^ #M7公文類纂15/航泊出入(2)画像36、﹁当艦本省御構内江本日回艦相成候ニ付此段御届申上候也 五月三十日 乾行艦 兵学寮御中﹂
(42)^ #M7公文類纂15/航泊出入(6)画像39-40
(43)^ ab#海軍制度沿革8(1971)p.58、乾行艦等級ノ件 明治7年8月8日(記三套40)明治14年9月丙46号廃艦﹁乾行艦之儀自今五等艦ト被相定候條此旨相達候事﹂
(44)^ #M1-M9海軍省報告書画像55-56、明治7年8月。
(45)^ #海軍制度沿革8(1971)p.58、明治8年5月18日(無号)﹁五等 乾行艦 自今四等ト被相定候事﹂
(46)^ #M1-M9海軍省報告書画像64-66、明治8年5月。
(47)^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像36(p.63)、航泊表乾行
(48)^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像18、艦船所轄並在任附改称及等級
(49)^ #M15.7-12海軍省報告書画像15、艦船所轄並在任 附改称及等級
(50)^ #明治22年公文備考3/艦体売却画像3-4、横鎮218号の3
(51)^ #明治22年公文備考3/艦体売却画像2、令第94号
(52)^ #明治22年公文備考3/艦体売却画像5、横鎮218号の5、舊乾行艦体公売処分済届
(53)^ ﹃日本海軍史﹄第9巻、108頁。
(54)^ ﹃日本海軍史﹄第9巻、7頁。
(55)^ #M4公文類纂11/柴誠一乾行艦長代の達他1件画像3、海軍所達167﹁柴精一 春日艦乗組差免乾行艦長代申付候事 辛未二月十七日 兵部省﹂
(56)^ #M1-M9海軍省報告書画像45-47、明治6年12月。
(57)^ abc#薩藩海軍史(下)p.1174