当麻永嗣
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当麻永嗣 | |
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時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 永継 |
官位 | 従五位上・刑部大輔 |
主君 | 淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 当麻真人 |
当麻 永嗣︵たいま の ながつぐ︶は、奈良時代の貴族。名は永継ともかく。姓は真人。官位は従五位上・刑部大輔。
経歴[編集]
天平宝字年間に仁部少丞を務め、称徳朝の天平神護3年︵767年︶従五位下・刑部大判事に叙任される。神護景雲3年︵769年︶左少弁、宝亀2年︵771年︶右少弁と、称徳朝から光仁朝にかけて弁官を務め、宝亀4年︵773年︶従五位上に昇叙される。 光仁朝後半は山陰道検税使、大判事などを歴任するが、宝亀9年︵778年︶出雲守として地方官に転じる。また、光仁天皇の詔を受けて、石川名足・淡海三船らと共に﹃続日本紀﹄の編纂に参画した[1]。 天応元年︵781年︶桓武天皇の即位後まもなく刑部大輔に任ぜられ京官に復す。その後散位となるが、延暦3年︵784年︶皇后・藤原乙牟漏の生母である阿倍古美奈が没した際、左大弁・佐伯今毛人らと共に葬儀を監護している[2]。官歴[編集]
﹃六国史﹄による。- 時期不詳:従六位下
- 天平宝字6年(762年) 2月3日:見仁部少丞[3]
- 時期不詳:正六位上
- 天平神護3年(767年) 正月18日:従五位下。7月3日:刑部大判事
- 神護景雲3年(769年) 8月19日:左少弁
- 宝亀元年(770年) 10月23日:兼土佐守
- 宝亀2年(771年) 閏3月1日:土佐守。9月16日:右少弁、土左守如故
- 宝亀4年(773年) 正月7日:従五位上
- 宝亀7年(776年) 正月19日:山陰道検税使
- 宝亀8年(777年) 10月13日:大判事
- 宝亀9年(778年) 2月4日:出雲守
- 天応元年(781年) 5月25日:刑部大輔
- 延暦3年(784年) 10月28日:見散位