徳山璉
(徳山たまきから転送)
とくやま たまき 徳山 璉 | |
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徳山璉 | |
生年月日 | 1903年7月27日 |
没年月日 | 1942年1月28日(38歳没) |
出生地 | 日本 神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市) |
職業 | 声楽家(バリトン)、流行歌手、映画俳優 |
ジャンル | レコード、トーキー |
活動期間 | 1930年 - 1942年 |
著名な家族 | 徳山陽 子息 |
主な作品 | |
『侍ニッポン』 |
徳山 璉(とくやま たまき、1903年〈明治36年〉7月27日 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家(バリトン)・流行歌手・俳優。愛称は「徳さん」。
人物・来歴[編集]
1903年︵明治36年︶7月27日、神奈川県高座郡藤沢町︵現在の同県藤沢市︶の開業医の家に生まれた。
開校したばかりの逗子開成中学校︵現在の逗子開成高等学校︶を経て、1928年︵昭和3年︶、東京音楽学校声楽科︵現在の東京芸術大学音楽学部声楽科︶を卒業。武蔵野音楽学校︵現在の武蔵野音楽大学︶の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、1930年︵昭和5年︶、ビクターから﹃叩け太鼓﹄で流行歌手としてデビュー。翌年には﹃侍ニッポン﹄が大ヒットとなった。その後も﹃ルンペン節﹄や、四家文子と共演の﹃天国に結ぶ戀﹄など数多くのヒット曲に恵まれた。﹃隣組﹄、﹃歩くうた﹄など、国民歌謡からヒットした曲もある。
一方、声楽家としても活躍し、ジョルジュ・ビゼーのオペラ﹃カルメン﹄のエスカミーリョが当たり役であった。ベートーヴェンの﹃交響曲第9番﹄の演奏にも、バリトン・ソロとして何回か出演している。昭和10年代前半には古川ロッパ一座に入り、﹃ガラマサどん﹄、﹃東海道中膝栗毛﹄などの舞台に出演したり、﹁シネオペレッタ﹂と呼ばれた音楽映画にも出演するなど幅広く活躍した。器用な芸で声帯模写やアドリブに秀で、批評家から﹁この即席にやる座興的動作の器用さ、これが今日の彼の芸の基調を為している﹂、ロッパからも﹁徳山璉が出てくれなかったとしたら、僕は、いきなり丸の内で、成功したとは思えない。﹂と、関係者から高く評価された。
レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの﹁邦楽的﹂な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しく、コミック・ソングも得意とし﹃○○ぶし﹄﹃歌ふ弥次喜多﹄︵古川ロッパと共演︶など多数の傑作を遺している。
ルンペン︵ホームレス︶・療養所・盲学校などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、﹁お相撲になっていたら今頃は双葉山を負かしていたかもね﹂などと笑わせたという話も残っている。
人気絶頂のころの1942年︵昭和17年︶1月28日、敗血症のため死去。満38歳没。友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山の訃報を聞いて衝撃を受け、弔問であたりはばからず号泣した。墓所は常光寺︵藤沢市︶。
息子には、ジャズ・ピアニストの徳山陽がいる。
家族[編集]
1925年結婚し、藤沢町鵠沼に新居を構えた。私生活面では、外見の豪放磊落さとは反対の小心な性格で、勝ち気な妻︵寿子・旧姓萩谷、1902年11月6日-1992年5月18日︶に頭が上らず、かなりいじめられたが、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという。 妻・寿子は、戦後、JOAK(日本放送協会)のラジオ番組で活躍した。また、寿子の音楽教室の生徒だった坂本龍一が自叙伝の中で、寿子について、﹁1902年大阪府生まれ。母は女医。東京女子高等師範学校︵現・お茶の水女子大学︶に入学するが中退し、音楽学校に編入。コップなどを使った創作楽器の演奏で活躍し、﹁徳山寿子のキッチン楽団︵坂本も参加︶﹂はテレビ番組にも出演。高校の校歌の作曲や、童謡の編曲も手がけた。また、﹃モガ﹄の先駆けとしてもメディアに登場している。92年没。﹂︵坂本龍一﹃音楽は自由にする﹄新潮社、2009年.p24︶と注記している。 ﹃モガ﹄の先駆けとしては、﹁徳山寿子︵ひさこ︶明治35年11月6日、大阪生れ。しつけの厳しい家庭に育つ。父親から﹁日本で一番難しい学校へ入れ﹂と教育を受け、御茶の水女子大学へ入学するが、好きな音楽のために女子音楽学校︵現・国立音楽大学︶へ転校する。その後、﹁サムライ日本﹂や﹁隣組﹂のヒットで知られる歌手の徳山璉と結婚。﹃モガ﹄︵モダン・ガール︶の先駆といわれ知られている﹂︵﹃モダン化粧史 粧いの80年﹄ポーラ文化研究所、1986年.p72︶と紹介されている。 国文学者の萩谷朴は寿子の弟。︵萩谷朴﹃ボクの大東亜戦争-心暖かなスマトラの人達、一輜重兵の思い出-﹄河出書房新社、1992年.p.131︶。息子には、ジャズ・ピアニストの徳山陽がいる。
おもなディスコグラフィ[編集]
●﹃叩け太鼓﹄ 1930年︵昭和5年︶ ●﹃侍ニッポン﹄ : 作詞西條八十、作曲松平信博 1931年︵昭和6年︶ ●﹃ルンペン節﹄ : 作詞柳水巴、作曲松平信博 1931年︵昭和6年︶ ●﹃天国に結ぶ戀﹄ : 四家文子とデュエット、作詞柳水巴、作曲林純平 1932年︵昭和7年︶ ●﹃満洲行進曲﹄ : 作詞大江素天、作曲堀内敬三 1932年︵昭和7年︶ ●﹃大大阪地下鉄行進曲﹄ : 小林千代子とデュエット、作詞平塚米次郎、作曲橋本国彦 1933年(昭和8年) ●﹃隣組﹄ : 作詞岡本一平、作曲飯田信夫 ●﹃歩くうた﹄ : 作詞高村光太郎、作曲飯田信夫 ●﹃○○ぶし﹄ : 作詞上山雅輔、作曲高木静夫 ●﹃紀元は二千六百年﹄ : 作詞増田好生、作曲森義八郎 ●﹃撃滅の歌﹄ : 作詞西條八十、作曲堀内敬三 ●﹃日の丸行進曲﹄ : 合唱波岡惣一郎・四家文子・中村淑子・能勢妙子・江戸川蘭子、作詞有本憲次、作曲細川武夫 ●﹃大陸行進曲﹄ : 合唱久富吉晴・波岡惣一郎、作詞島越強、作曲中支派遣軍軍楽隊 ●﹃太平洋行進曲﹄ : 作詞横山正徳、作曲布施元 ●﹃さくら音頭﹄ : 作詞佐伯孝夫、作曲中山晋平 ●﹃空の勇士﹄ : 作詞大槻一郎、作曲蔵野今春 ●﹃国民進軍歌﹄ : 作詞下泰、作曲松田洋平 ●﹃大政翼賛の歌﹄ : 作詞山岡勝人、作曲鷹司平通 ●﹃愛国行進曲﹄ : 作詞森川幸雄、作曲瀬戸口藤吉 ●﹃愛馬進軍歌﹄ : 作詞久保井信夫、作曲新城正一 ●﹃瑞穂踊り﹄ - われらのうた ●﹃南方の歌﹄ - われらのうた ●﹃なんだ空襲﹄ - われらのうたフィルモグラフィ[編集]
すべて出演作である[1]。 ●﹃百万人の合唱﹄ : 監督富岡敦雄、音楽飯田信夫、J.O.スタヂオ・ビクター・レコード提携製作、1935年 ●﹃かぐや姫﹄ : 監督田中喜次、演技監督青柳信雄、音楽宮城道雄、J.O.スタジオ / 東和商事映画部、1935年 - その息子細身 ●﹃歌ふ弥次喜多﹄ : 監督岡田敬・伏水修、音楽鈴木静一、P.C.L.映画製作所、1936年 ●﹃ハリキリ・ボーイ﹄ : 監督大谷俊夫、音楽鈴木静一、P.C.L.映画製作所 / 東宝映画、1937年 ●﹃ロッパのガラマサどん﹄ : 監督岡田敬、音楽谷口又士、東宝映画東京撮影所、1938年 - 熊野権次郎 ●﹃船出は楽し﹄ : 監督伏水修、音楽飯田信夫、東宝映画京都撮影所、1939年 ●﹃ロッパ歌の都へ行く﹄ : 監督小国英雄、音楽服部良一、東宝映画東京撮影所、1939年主なオペラ出演[編集]
●1932年2月28日 ﹃カヴァレリア・ルスティカーナ﹄アルフィオ︵日比谷公会堂︶[2] ●1934年12月17日 ﹃ヘンゼルとグレーテル﹄父親︵帝国ホテル演芸場、35年1月20日同所で再演︶ ●1935年3月24日 - 26日 金曜会公演﹃カルメン﹄エスカミーリョ︵軍人会館︶[3] ●1935年8月2日 - 16日 ﹃カルメン﹄エスカミーリョ︵有楽座︶[4]脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 徳山璉、日本映画データベース、2010年2月6日閲覧。
- ^ 増井敬二『日本オペラ史 〜1952』p209
- ^ 増井p236
- ^ 増井p227
参考文献[編集]
- 増井敬二・昭和音楽大学オペラ研究所『日本オペラ史 〜1952』(水曜社、2003)
- 国立国会図書館デジタルライブラリー『徳山璉随筆集』輝光館、1942年