手塚良仙
手塚 良仙︵てづか りょうせん、または良庵︵りょうあん︶、文政9年︵1826年︶ - 明治10年︵1877年︶10月10日︶は、幕末から明治時代初期の医師・蘭学者[1]。名は光亨。息子は司法官の手塚太郎[2]。大槻俊斎は義弟にあたる[3]。漫画家の手塚治虫の曾祖父である[4]。
略歴[編集]
江戸の蘭方医・常陸国府中藩医の手塚良仙︵手塚光照︶を父に生まれ、緒方洪庵の適塾に入門[5]。福澤諭吉らと親しむ[6]。江戸に帰って、伊東玄朴・大槻俊斎らと図り、お玉が池種痘所設立[7]。
父の跡を継ぎ、良仙と改名。幕府歩兵屯所付医師となり、維新後、大日本帝国陸軍軍医となる︵大尉相当官︶[8]。西南戦争に従軍、九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院にて死去した[2]。
家族・親族[編集]
手塚家[編集]
●祖父・良仙︵光行︶ ●父・良仙︵光照︶︵1801年 - 1862年。医師、蘭学者︶ ●息子・太郎︵1862年 - 1932年。司法官︶ ●孫・粲︵1900年 - 1986年。写真家︶ ●曾孫・治︵治虫︶︵1928年 - 1989年。漫画家︶ ●玄孫・眞︵1961年 - 。映像クリエイター︶ ●玄孫・るみ子︵1964年 - 。プランニングプロデューサー︶著書[編集]
●﹃妊婦摂生略考﹄登場する作品[編集]
●手塚治虫﹃陽だまりの樹﹄ 手塚良仙を主人公の一人とした歴史漫画。大阪の岡場所で手塚ではなく鉄川と名乗っていたエピソードが描かれているが[5]、これは当時適塾で学んでいた福澤の著書﹃福翁自伝﹄中の﹁遊女の贋手紙﹂の章でも書かれている[6]。 ●みなもと太郎﹃風雲児たち 幕末篇﹄ 幕末史の群像劇を描いた大河歴史ギャグ漫画。適塾時代の福澤のエピソードで、顔が手塚治虫の自画像風で、さらに髷までベレー帽風に描かれた良仙が登場する。関連項目[編集]
●伊東玄朴 ●大槻俊斎外部リンク[編集]
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『手塚良仙』 - コトバンク
- 手塚良庵:キャラクター名鑑:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト