斎藤晌
人物情報 | |
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生誕 |
1898年1月15日 日本愛媛県 |
死没 | 1989年5月11日 (91歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 哲学 |
研究機関 | 東洋大学・明治大学 |
斎藤 晌︵齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 - 1989年5月11日[1]︶は、日本の哲学研究者、東洋大学名誉教授、明治大学名誉教授。
経歴[編集]
1898年、愛媛県生まれ。実家は宇和島藩の藩校の儒学者の家系で、早くから漢籍に親しむ[2]。1924年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は東洋大学教授、大東文化学院教授などを務めた。1943年より日本出版会常務理事。1944年に辞職した。 太平洋戦争が終結すると、占領期にはかつての論説等が戦争協力にあたるとされ、公職追放の対象となった[3]。公職追放解除後、1952年より明治大学教授、1953年からは東洋大学教授を兼任。1956年より東洋大学文学部長。1969年に定年退任した。研究内容・業績[編集]
●﹃スピノザ全集﹄の翻訳を行い、また唯物論研究会の発起人の一人でもあったが、日中戦争期から日本主義への傾斜を強め、太平洋戦争期には大日本言論報国会理事に就任した[2][4]。1943年︵昭和18年︶から1944年︵昭和19年︶にかけては、メディア統制機関である日本出版会の常務理事に就任している[4]。 なお、1956年、元々社が、日本初の本格的なSFシリーズ﹃最新科学小説全集﹄を刊行するにあたって、そのブレイン役を果たした[5]。著書・翻訳[編集]
著書[編集]
●﹃哲学概論﹄内田老鶴圃 1936年 ●﹃日本漢詩 古代篇﹄春陽堂 1937年 ●﹃歴史哲学 民族史観への基礎的予備概念﹄高陽書院︿新鋭哲学叢書﹀1938年 ●﹃日本思想の将来性﹄高陽書院 1939年 ●﹃日本文化の諸問題﹄朝倉書店 1941年 ●﹃方法﹄雄山閣︿哲学新書﹀ 1947年 ●﹃死ぬる前に﹄四洲社 1950年︵小説︶ ●﹃自殺及び殺人の哲学﹄雄山閣 1951年 ●﹃哲学読本﹄内田老鶴圃 1952年 ●﹃漢詩入門﹄元々社︿民族教養新書﹀ 1954年。新版 大法輪閣 1966年 ●﹃われらは哲学する﹄元々社︿民族教養新書﹀ 1954年 ●﹃日本漢詩 上代篇﹄元々社 1956年。上記の新版 ●﹃自殺の哲学﹄東京元々社 1958年 ●﹃悪の研究﹄東京元々社 1959年 ●﹃詩吟集﹄斎藤荊園 東京元々社 1959年翻訳[編集]
●﹃復活祭﹄ストリンドベルヒ 早川孝之共訳 京文社 1922年 ●﹃現代の独逸哲学﹄ヴィリ・モーク 宝文館 1926年 ●﹃大海のほとり ストリントベルク全集7﹄岩波書店 1927年。岩波文庫 1933年 ●﹃カントとフッサァル﹄ワルタ・エーアリヒ 内田老鶴圃 1928年 ●﹃認識批判的要領に拠る形而上学﹄ワルタ・エーアリヒ 内田老鶴圃 1928年 ●﹃スピノザ全集﹄第1・2巻 内田老鶴圃 1932-33年 ●﹃倫理学︵エチカ︶﹄スピノザ 中和書院 1948年 ●﹃生きる秘訣﹄ヴィヴェーカーナンダ 日本教文社 1962年 ●﹃ヴェーダーンタ哲学入門﹄ヴィヴェーカーナンダ 日本教文社 1963年 ●﹃唐詩選﹄上下 集英社︿漢詩大系﹀、1964-65年。集英社︿漢詩選﹀1996年 ●﹃李賀 漢詩大系﹄集英社、1967年 ●﹃新鈔 唐詩選﹄集英社﹁中国詩人選﹂1966年、選書版1972年。小沢書店︿小沢クラシックス﹀ 1996年 ●﹃全釈漢文大系15老子﹄集英社 1979年参考文献[編集]
●﹃愛国心について﹄著者紹介注[編集]
(一)^ ﹃人物物故大年表﹄
(二)^ ab赤澤史朗 著﹁大日本言論報国会――評論会と思想戦﹂、赤澤史朗; 北河賢三 編﹃文化とファシズム﹄日本経済評論社、1993年12月8日、182頁。ISBN 4-8188-0696-X。
(三)^ 公職追放の該当事項は﹁日本出版会理事書籍部長、著書、大日本言論報国会理事﹂。︵総理庁官房監査課 編﹃公職追放に関する覚書該当者名簿﹄日比谷政経会、1949年、517頁。NDLJP:1276156。︶
(四)^ ab赤澤史朗﹃徳富蘇峰と大日本言論報国会﹄山川出版社︿日本史リブレット98﹀、2017年4月25日、53頁。ISBN 978-4-634-54710-0。
(五)^ 高橋良平﹃日本SF戦後出版史﹄︵﹃本の雑誌﹄1991年4月号︶。