斎藤英四郎
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斎藤 英四郎︵さいとう えいしろう、1911年11月22日 - 2002年4月22日︶は、日本の実業家。新日本製鐵︵新日鉄、現・日本製鉄︶の元社長。経済団体連合会︵経団連︶第6代会長。
人物[編集]
新潟県北蒲原郡安田町︵現・阿賀野市︶出身。新潟中学校、旧制新潟高等学校を卒業。東京帝国大学法学部︵東京大学︶の入試に失敗、神戸商業大学に入学するも、翌年、東京帝大経済学部に入学。 経済学部を卒業後、三菱鉱業︵現・三菱マテリアル︶入社。のち、日本製鐵に移り、八幡製鐵専務、新日鉄専務、副社長などを経て社長。 2002年4月22日、心不全のため死去[1]。90歳没。略歴[編集]
●1935年:三菱鉱業入社。 ●1941年:日本製鐵入社。 ●1970年:新日鉄専務︵販売担当︶。 ●1973年:新日鉄副社長。 ●1977年:田坂輝敬社長の急逝に伴い新日鉄代表取締役社長に就任。 ●1981年:新日鉄代表取締役会長 ●1987年:新日鉄取締役相談役名誉会長 ●1991年:新日鉄相談役名誉会長 ●1998年:新日鉄社友名誉会長 ●2002年:死去[2] 主に営業を担当。豪放磊落な明るい性格で親しまれた。﹃大地の子﹄のモデルとなった上海宝山鋼鉄誕生を新日鉄が支援した際の社長。 1986年、同じ新日鉄の稲山嘉寛の後を継いで第6代経団連会長に就任。1990年、勲一等旭日大綬章受章。また、1998年の長野オリンピックでは︵財︶長野オリンピック冬季競技大会組織委員会︵NAOC︶の会長にも歴任。1977年から1995年まで日本ハンドボール協会会長を務めた後、日本ハンドボール協会名誉会長を歴任。1984年から2002年まで日本アルゼンチン協会会長を務めた。 日本経済新聞﹁私の履歴書﹂に寄稿し、第23巻に収録されている。叙勲・褒章[編集]
参考文献[編集]
- 炎とともに 新日本製鐵株式會社十年史、新日本製鐵株式會社、1981年3月31日発行
- 八幡製鐵所80年史、新日本製鐵株式會社、1980年11月18日発行
脚注[編集]
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