新国誠一
新国誠一 | |
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誕生 |
1925年12月7日 宮城県 |
死没 |
1977年8月23日(51歳没) 東京都 |
職業 | 詩人 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1952年 - 1977年 |
ジャンル |
具体詩、視覚詩 象形詩、音声詩 |
文学活動 | コンクリート・ポエトリー |
代表作 | 『雨』(1966年)、『川または州』(1966年) |
デビュー作 | 『0音』(1963年) |
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新国 誠一︵にいくに せいいち、1925年12月7日 - 1977年8月23日︶は、日本の詩人、画家。旧字体で新國誠一とも表記され、新国自身は晩年旧字体での表記にこだわっていたとされる[1]。1960年代の国際的な前衛詩運動であるコンクリート・ポエトリーの運動に関わり、象形詩や視覚詩、音声詩などの実験的な作品を制作した。世界的には重要な詩人の一人として位置づけられており[2]、日本やドイツの教科書などにも作品が掲載されている[2]。
﹃川または州﹄(1966)の壁面展示
ステファヌ・マラルメの﹃骰子一擲﹄
1963年に刊行された﹃0音﹄では、はじめて﹁象形詩﹂﹁象音詩﹂という概念が提示された[20]。前半と後半に分けて象形詩と象音詩が収録され[21]、前半の象形詩については﹁作品を読む場合は音読すること﹂[15]という但し書きが付されている。
前半の象形詩は、大きさの異なる漢字やひらがな、カタカナといった文字を、空間性を意識して紙面に配置した作品が中心となっており、視覚詩に近い実験的な作品といえる[21]。後半の象音詩は名の通り﹁聴くための詩﹂[22]であり、1963年12月には、﹃0音﹄の作品を音読する実演も行われた[6]。その試みに参加した者の中には、作曲家の刀根康尚なども含まれている[23]。
﹃0音﹄の作品、とりわけ象形詩に見られる空間を意識した文字の配置は、フランスの詩人ステファヌ・マラルメの﹃骰子一擲﹄の影響を受けたものであると考えられている[21]。また、ジョン・ケージや十二音音楽からの影響も指摘されている[24]。
またヴィニョーレスに音声の重要性を説かれたこともあり[25]、その後音声詩の試みも積極的に行っている。丁度この頃オープンリールによる録音技術や写植技術が発達していたことも、﹃0音﹄の表現やその後の音声による表現を後押ししたとみられている[22][26]。
ピエール・ガルニエ﹁Pik bou﹂
﹃0音﹄で新国は、その当時まだ国際的な前衛詩運動の存在を知らなかったにもかかわらず、アルファベット語圏のコンクリート・ポエトリーとほぼ同じ方法論にたどり着いた[27]。そのため﹃0音﹄を受け取ったピエール・ガルニエは﹁異なった言葉で私と同じようなことを目指し、同じような作品を発表している﹂[28]ことに仰天し、2人の交流がはじまった。のちにガルニエは新国と﹃日仏詩集﹄を刊行し、その中で﹁ミクロポエム﹂などの作品を提示した。また漢字圏、表意文字圏の作家として海外から注目され、作品の出品依頼も相次いだ[11]。新国はこのような交流をへて、﹃0音﹄以降、コミュニケーションの重視、グラフィックデザイン的構成という手法に転換した[29]。しかし決して漢字による表現から離れることはなかった[29]。
新国は﹁ASA﹂で﹃川または州﹄﹃雨﹄などの代表作を発表している。文字はより面的に配置され、面としての全体的な視点と、それぞれの文字への視点が同時に生じる[30]。また﹃闇﹄のように﹁闇﹂という漢字から﹁音﹂という漢字が抜け出すと言った表現もみられ、使用される漢字も明朝体からゴシック体が用いられるようになる。このような漢字のパーツ化、字体の変化は、海外を意識した欧文化であると考えられている[29]。
またこの時期の作品から、作品に用いられている漢字の意味を英語で注記する、と言ったスタイルが見られる。例えば﹃嘘﹄(1966年)では﹁(口)=mouth (虚)=void (嘘)=lie﹂といった注記がつけられている[31]。これは新国が海外からの依頼に答えたためである[32]。
新国自身は、これらの視覚詩を美術との境界領域であると見なされることを嫌い、写真などによる詩の可能性も否定している[33]。しかし実際には、絵と詩の結びつきという視点で作品を語られることもあり[34]、詩による空間構成が美術の領域に近づくことは避けられないという意見もある[35]。