新岐阜百貨店
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新岐阜百貨店 Shin-Gifu Departmentstore | |
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![]() 2003年1月 | |
店舗概要 | |
所在地 | 岐阜県岐阜市神田町9丁目 |
開業日 | 1957年(昭和32年)3月 |
閉業日 | 2005年(平成17年)12月28日 |
商業施設面積 | 13,819 m² |
最寄駅 | 名鉄岐阜駅 |
新岐阜百貨店︵しんぎふひゃっかてん︶は、かつて岐阜県岐阜市神田町9丁目の名古屋鉄道新岐阜駅︵現・名鉄岐阜駅︶にあった百貨店である。
沿革[編集]
名古屋鉄道︵名鉄︶新岐阜駅・岐阜乗合自動車︵岐阜バス︶新岐阜バスセンター︵現・岐阜バスターミナル︶のステーションデパートとして[1][2]、岐阜バス、名鉄等の共同出資により、1957年︵昭和32年︶3月に開店した[3]。1984年︵昭和59年︶7月には業績低迷から新会社を設立、旧会社より営業を引継いでてこ入れをはかり[2]、最盛期の1990年︵平成2年︶[4]には年商約165億円[5]に達した。 バブル崩壊後は再び業績が低迷。1999年︵平成11年︶に名鉄を引き受け先として約40億円の第三者割り当て増資の実施[2]や、名鉄の100%出資子会社化など数度にわたるてこ入れを行った[1]。だが、その後も業績は好転せず、2005年︵平成17年︶2月には売上高85.79億円で約9.15億円の赤字[2]に転落して債務超過に陥り[1]、再建の見通しが立たない[5]ことから2005年︵平成17年︶12月28日に閉店した[6]。過去には地元財界が約40%を出資していた時期もあったが、上述の業績不振もあって最終的には名鉄の完全子会社として終焉を迎えている[1]。 また、バブル経済期には隣接する新岐阜バスセンター用地を含めて大規模な増床を行い、売場面積4万m2とする構想もあったが実現しなかった。衰退[編集]
1990年代後半以降は岐阜中心街の衰退、名古屋や郊外との競合やニーズの多様化などの影響を受け時代の変化に追いかなかった結果売上が大幅に減少し、親会社名鉄の業績不振も重なって閉店を余儀なくされた。 店舗前の歩行者数は休日で1977年の41,260人から2004年には9,424人と約4分の1に減少している。年表[編集]
●1957年︵昭和32年︶3月 - 開店。 ●1984年︵昭和59年︶7月 - 名古屋鉄道の100%子会社になる。 ●2005年︵平成17年︶1月29日 - 併設する新岐阜駅が﹁名鉄岐阜駅﹂に改称される。 ●2005年︵平成17年︶12月28日 - 閉店。 ●2006年︵平成18年︶6月24日 - 解体工事が始まる。店舗[編集]
1階には食品売り場があり、岐阜バスのターミナルが併設されていた。さらに2階には名鉄名古屋本線のホームが併設されており、この2階からは岐阜長住町ビル︵岐阜LOFT︶に接続していた。 催し物広場のある最上階では閉店まで毎年2月に古書即売市が開催されていた。閉店後[編集]
駅周辺の鉄道高架化の計画もある関係で恒久的な施設は建設できないものの早急に取り壊して次の施設を建設したいとして[7]、2006年︵平成18年︶6月24日より解体し、跡地に新たな商業施設が建設され、2009年︵平成21年︶9月6日にECT︵イクト︶として開業した[8]。出典[編集]
- ^ a b c d “新岐阜百貨店 閉鎖へ 債務超過で12月に”. 中日新聞 (中日新聞社). (2005年6月20日)[要ページ番号]
- ^ a b c d “新岐阜百貨店 閉鎖へ/「年内に」取締役会が決定”. 岐阜新聞 (岐阜新聞社). (2005年6月20日)[要ページ番号]
- ^ 『商店街実態調査― 岐阜県内の商店街振興組合・商工会・発展会の現状』(レポート)、財団法人岐阜県産業経済振興センター、2001年3月。[要ページ番号]
- ^ “歩行者数4分の1に 新岐阜百貨店西側で落ち込み”. 中日新聞 (中日新聞社). (2005年6月24日)[要ページ番号]
- ^ a b “商業施設の撤退と進む再開発事業”. 月刊中部財界 2006年4月号 (中部財界) (2006-4).[要ページ番号]
- ^ “新岐阜百貨店が48年の歴史に幕 跡地利用に期待と不安交錯”. 中日新聞 (中日新聞社). (2005年12月29日)[要ページ番号]
- ^ “「跡地利用早期に」/新岐阜百貨店で所感/名鉄会長と社長本社訪問”. 岐阜新聞 (岐阜新聞社). (2006年1月6日)[要ページ番号]
- ^ “「イクト」開業に長い行列 新岐阜百貨店跡に新商業施設”. 中日新聞 (中日新聞社). (2009年9月6日)[要ページ番号]