新潟縣護國神社
新潟縣護國神社 | |
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所在地 | 新潟県新潟市中央区西船見町5932-300 |
位置 | 北緯37度55分19.36秒 東経139度1分44.67秒 / 北緯37.9220444度 東経139.0290750度 |
主祭神 | 新潟県出身の国事殉難者 |
社格等 | 内務大臣指定護国神社・別表神社 |
創建 | 明治元年(1868年) |
例祭 | 5月8日・9月8日 |
新潟縣護國神社︵にいがたけんごこくじんじゃ︶は、新潟県新潟市中央区にある神社︵護国神社︶である。
戊辰戦争から第二次世界大戦までの新潟県出身の戦死者を祀り、現在の祭神の数は79729柱となっている。
戊辰役殉難者墓苑︵入口︶
ミャンマー産白大理石御社紋
歴史[編集]
鳥羽・伏見の戦いから始まり、やがて全国各地に広がった戊辰戦争は、新潟市も例外なく激しい戦場と化した。西軍︵薩摩、長州ら新政府軍︶と東軍︵米沢、会津、庄内︶の両軍に多数の戦死者が出て尊い命が失われた。1868年︵明治元年︶の10月に新政府軍︵西軍︶側戦死者の墓碑を常磐ケ岡︵旧新潟大学本部の跡地︶に設置され、戊辰戦争の官軍戦没者416柱を祀って社殿を造立し新潟招魂社として祭られた。1875年︵明治8年︶に官祭招魂社に改称した[1]。 1941年︵昭和16年︶7月に内務省令により、官祭招魂社から護國神社と改称した。移転候補地として、当時の新潟市と新発田町、高田市で激しい招致運動が繰り広げられたが、1941年︵昭和16年︶に新潟市に決定した[1]。 1942年︵昭和17年︶6月から西船見町への移転作業が始まり、延べ25,000人の動員により1945年︵昭和20年︶5月に移転が完成した[1]。 1985年︵昭和60年︶旧新潟大学本部跡地から東軍戦死者のものと思われる92体分の遺骨が発見され、護國神社敷地内にある﹁戊辰役殉難者墓苑﹂に埋葬されて、1987年︵昭和62年︶に﹁戊辰役東軍慰霊碑﹂を建てた。境内施設[編集]
●新潟市営相撲場︵現在廃止︶ ●北原白秋歌碑︵﹃砂山﹄の碑︶ ●坂口安吾記念碑 ●満蒙開拓者殉難者の碑[2]現地情報[編集]
交通アクセス ●新潟市観光循環バス﹁護国神社入口﹂バス停より徒歩すぐ ●新潟交通 C2 浜浦町線 ﹁岡本小路﹂︵新潟駅方面からのみ︶から徒歩約5分 ●新潟交通 C2 浜浦町線 ﹁護国神社前﹂バス停︵新潟方面行のみ︶まで徒歩すぐ ●駐車場あり 周辺 付近には水族館などの観光地がある他、大学や高校など多数の学校が集中して立地している。日本海も間近にあり、付近の海岸は﹁護国神社周辺の海岸﹂として日本の白砂青松100選に選ばれている。[3]- マリンピア日本海
- 西海岸公園
- 日本海タワー
- 新潟大学医学部
- 新潟青陵大学
- 新潟青陵大学短期大学部
- 新潟青陵高等学校
- 新潟県立新潟中央高等学校
- 新潟市立寄居中学校
- 新潟大学教育学部附属新潟中学校
- 新潟大学教育学部附属新潟小学校
- 新潟大学教育学部附属特別支援学校
- 新潟県立はまぐみ養護学校
脚注[編集]
- 注釈
- 出典
参考文献[編集]
- 市史にいがた19、1996年
- 新・にいがた歴史紀行、2004年
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 公式ウェブサイト
- にいがた観光ナビ:新潟県護国神社 - 新潟県観光協会