日の神論争
日の神論争︵ひのかみろんそう︶とは1786年︵天明6年︶から1787年︵天明7年︶にかけて本居宣長と上田秋成のあいだで書簡を通して交わされた国学上の論争である。具体的には日の神、すなわち天照大御神をめぐる論争を指す。
概要[編集]
国学は﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄が成立した当時の言葉で読むことを通じ、古代の日本人の心である古道をあきらかにしようとする学問である。本居宣長、上田秋成ともに国学者の学統に連なる。宣長は漢意︵からごころ︶を否定し、日本人の心を明らかとし、人間解放への道を拓き、国民的倫理の確立を真面目に希求した。同時に粗雑な皇国思想を主張したため都市のブルジョワ文化サロンの一人であった秋成が﹁臭み﹂として批判、ここから論争に至った。 日の神論争は両者の応酬を宣長が論点ごとにアレンジして成った﹃珂刈葭︵かがいか︶﹄に収録されている。﹃珂刈葭﹄前編は古代日本語に﹁ん﹂の撥音があったか、なかったかをめぐる論争が[1]、後編は﹃鉗狂人﹄に対する秋成の評と宣長の弁がある。以降は﹃珂刈葭﹄後編に拠る。発端[編集]
1781年︵天明元年︶京都の国学者、藤貞幹は﹃衝口発︵發︶﹄において神武天皇は呉の泰伯の子孫である、また神代紀の年数は荒唐無稽であるなどを書いた。宣長は貞幹を狂人と決めつけ鎖につなぐという意味の﹃鉗狂人﹄︵1785年︶を著して批判をした。 ﹁いづこのいかなる人にかあらむ。近きころ衝口発といふ書をあらはして。みだりに大御国︵おほみくに︶のいにしへをいやしめおとして。かけまくも︵口に出すのもおそれおおい︶いとかしこき皇統をさへに。はゞかりもなく︵畏れ慎むことをせず︶あらぬすぢに論じ奉れるなど。ひとへに狂人の言也﹂﹃鉗狂人﹄ 秋成は﹃鉗狂人﹄を読むと宣長に書簡を送った。文章の冒頭は﹁狂人︵貞幹︶鉗せらるゝ共、反て其罪に伏せざるべし。しばらく此鉄索を放べ、他日、本心を待て、再糺問せむもの歟。今是を見るに忍びず、代りて其一二を陳せむとす。唯恐らくは己連索せられむことを。大人︵うし。宣長︶希くは哀憐を垂よ﹂であった。ここから論争が始まった。論争の前段[編集]
前述したように貞幹は﹃衝口発﹄において神代紀の年数の記述を荒唐無稽と否定した。具体的には﹁本邦上古之世ヲ天神七代地神五代ト名テ国史以下ノ書ニ神代ト云フ。神武記ニ此間ヲ一百七十九万二千四百七十余歳トス。此年固ヨリ論ズルニタラズ﹂とした。これに対して宣長は﹃鉗狂人﹄で否定をした。以下は宣長の批判に対する秋成の意見である。 秋成︶﹁太古の事蹟の霊奇なる、誰か其理を窮むへき、大凡天地内の事、悉︵ことごと︶皆不可測ならぬはあらす﹂。 国学において古書にあって不可知なものはそのまま不可知であり、道徳観念で否定をした貞幹は間違っている。 朱子学は宇宙を構成する要素を明らかとし、その上で人間の仕組みを説き、道徳に従うことがあるべき形とした。18世紀当時のアジアでは日本を含めて政治から人文までのあらゆる万物が道徳観念で解釈をされた。神話は古代の人が感じた不可思議なことを神々に仮託して変えたお話、寓話、アレゴリーと朱子学が解釈をしたのに対し、宣長も秋成も神話はそのまま神話であり観念論からの解釈をしない立場にいた。 そこには実証的、相対的な立場から朱子学を否定。政治や学問を道徳から解放した日本の伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠ら古学派の影響がみえる。しかし秋成は貞幹が疑問をもった背景として古書への疑問も挙げた。すなわち﹃古事記﹄と﹃日本書紀﹄の伝説に異同がある点は指摘した。 具体的には﹁太古の伝説といふにも、後に撰する人の聞もらせし事も有歟。或は私意以て淘汰せし事も有しにや。二記の伝説、異同少からず。然は疑うへからすと云共、猶疑念の休ム時もあらしとおほゆ﹂とした。これに対して宣長の返事は以下の如くである。 宣長︶﹁︵貞幹が︶たゝ其甚遠長なるを以て、ひたふるに不足論といへるは、普通の漢意のなまさかしらにして、古意にあらさる﹂態度である。秋成が年齢の長さを疑わず年数が詳しい点を疑問としたのは、﹁古意にかなへり﹂とした。ただし、﹁異あるによりて其事をなへて疑ひて取らさるは、非也﹂︵一部省略︶ 遠長とは﹃古事記﹄における天皇の年齢が137歳︵神武天皇︶や168歳︵崇神天皇︶とある点を指す。不足論とは貞幹の此年固ヨリ論ズルニタラズという発言を指す。 古書も人の書いた書であり筆者の取捨選択、知識の有無、好悪の感情が入り込む。﹃記紀﹄に異同があればおかしいというべき。その点を問うた秋成に対し、宣長は古書に疑いがあるからといってすべてを否定すべきではない。異同があるのは自然なことという返事をした。小林秀雄は﹃本居宣長﹄のなかで宣長の逃げ口上ととられても仕方なかったとした。日の神論争[編集]
﹃鉗狂人﹄の中で、宣長は天照大御神が四海万国を照しますと発言をした。秋成は宣長への書簡で疑問を投げた。ここから日の神論争が始まる。天照大御神が世界を照らす太陽とする神話解釈は正しいのか、それとも正しくないのか。秋成は正しくないとした。以下、両者の発言を抜粋、補足する。秋成の評[編集]
秋成は神代記から天照大御神が照らす範囲、照らさない範囲を探した。そこで﹁此子光華明彩、照徹於六合之内﹂、また﹁又閉天岩戸、而刺許母理坐也、爾高天原皆暗、葦原中国悉闇、因此而常夜往﹂を例として挙げた。六合は本来、天地四方を指すがこの文では日本を指していると秋成は仮定した。天照大御神が天岩戸に隠れて暗くなったのが葦原中国と名指しされた点からも明らかであると秋成は主張した。 秋成︶﹁此外に、御国のみならす、天地内の異邦を悉に臨照ましますといへる伝説、何等の書にありや﹂。 次に秋成は書典はわづかに三千年来の小理にて、取あふましき旨なれは、さし置くべしとして日本と西洋の画論にすすんだ。﹃鉗狂人﹄で宣長が貞幹を非難する発言に﹁書典にのする所。三千年にたらざる内の事にして﹂とする箇所がある。 ついで世界地図の上に視点をおろした。 秋成︶﹁文字以て︵日本と︶事理の通ふ国は少にして、其余は国号をさへ聞知らぬが多く、しかも地形広大なるが見えたり。此図︵世界地図︶中にいでや吾皇国は何所のほどゝ見あらはすれは、たゝ心ひろき池の面にさゝやかなる一葉を散しかけたる如き小嶋なりけり。然るを異国の人に対して、此小嶋こそ万邦に先立て開闢︵かいびゃく。世界の始まり。天地の開け始め。︶たれ、大世界を臨照まします日月は、こゝに現しましゝ本国也、因て万邦悉く吾国の恩光を被らぬはなし、故に貢を奉て朝し来れと教ふ共、一国も其言に服せぬのみならす、何を以て爾いふそと不審せん時、こゝの太古の伝説を以て示さむに、其如き伝説は吾国にも有て、あの日月は吾国の太古に現はれましゝにこそあれと云争んを、誰か截断して事は果すへき﹂ 秋成は天竺、漢土の日月神話の例を引き﹁猶文字の通はぬ﹂国々にも種々の﹁霊異なる伝説有て、他国の事は不可肯﹂とした。 秋成︶﹁たた、此国︵日本︶の人は、大人︵宣長︶の如く︵日本の︶太古の霊異なる伝説をひたふるに︵いちずに。熱心に。ひたむきに︶信し居らんそ直かるへき︵当然です)﹂ それは人情である。しかし 秋成︶﹁言を広めて他国に対する論は馭戎慨言の如きも取舎の眼あるへき書也。書典はいつれも一国一天地にて、他国に及ほす共、諺にいふ縁者の証拠にて、互に取りあふまじきこと也﹂ この発言の背景には、日本は海内無比の上国であり、唐、天竺、西欧などの諸国は下国である。﹃古事記﹄に登場する日本の神は世界万国共通のものであるという本居宣長の神話論を展開した﹃馭戎慨言﹄︵1778︶に対し、上田秋成が﹃往々笑解(おうおうしょうかい、と読む説あり。現存せず)﹄という本を書いて批判した出来事があった。宣長の弁[編集]
秋成に対して宣長は頭から居丈高な態度で反論した。 宣長︶﹁例の漢意︵からごころ︶にくゝられたる物なれば、今さら辨︵弁︶するもうるさけれど、猶いさゝかいはゞ、此大御神、天地内の万邦を悉︵ことごと︶に照し給ふといへる伝説、いづれの書にあるにかといへるは、いと愚也﹂ 宣長︶﹁まづ、書紀に照徹六合とあるをは、姑く御国のことに借りていへりと説曲︵トキマゲ︶たるにゆるす共、日神と申す御号をいかにせん。猶是をも仮リに然名けたりと説曲んとする歟。書紀一書に、使照臨天地ともあるをばいかんとかする。唐天竺なとの天地は、皇国の天地と別なるにや。又一書に、日月既生、次生蛭児、是はいかに、日神月神とあるをは、猶日月にあらすと強ていひまぐ共、たゞ日月とあるをはいかにとかする、猶此類多し、神代紀をよく見よ。但し、唐天竺の日月は皇国の日月とは別也とするにや。いふかしいふかし︵疑わしい。はっきりしない︶﹂。 次に、秋成の画論、世界地図に始まった日本を含めた国々の客観的存在、また日本の神話と世界の神話の相対性を指摘する合理的批判にも宣長は正面から否定した。 宣長︶﹁画の論はこゝに何か用かある。又阿蘭陀の人物の論も用なきこと也。﹂﹁さて万国の図を見たることを、めつらしげにことことしくいへるもをかし。かの図、今時誰か見ざる者あらん。又皇国のいとしも広大ならぬことも、たれかしらざらん。凡そ物の尊卑美悪は、形の大小にのみよる物にあらす。数尋の大石も、方寸の珠玉にしかず。牛馬形大なれ共、人にしかず。いかほと広大なる国にても、下国は下国也。狭小にても、上国は上国也﹂。世界地図は南極の下の方にあって草木も生えない人もいないが大よそ地球の三分の一を占める国があるが﹁定めて上田氏は、これを四海中の最上の国と思へるなるへし﹂︵一部省略︶ 秋成の相対性を美醜尊卑の価値観で否定した宣長は皇国絶対化志向を続けた。 宣長︶﹁抑皇国は四海万国の元本宗主たる国にして﹂、国土が小さいことは﹁必さて宜しかるべき深理のあることなるへし、其理はさらに凡人の小智を以てとかく測り識へきところにあらす、かくいはば又例の不測に託すといふけれど﹂、日本の国土が小さい理由は人智を超えており、そういえば上田氏はいつもの如く不可知論に逃げ込むのだというだろう、しかし﹁不可測のことを不可測といはで何とかいはむ。不可測をしひて測りていはむとするは、小智をふるふ漢意の癖なり﹂︵一部省略︶ 宣長は見て分かることでも日本はすばらしい国であると例証を挙げた。 宣長︶﹁皇統は不易である。人の命をつなぐ稲穀は美しく世界の在り様とは隔絶している。その外にも数えようのないすばらしい点がたくさんある。国土は小さくても古代より外国には侵されたことはない。元寇も退けた。他の国は併呑されても日本は残った。此の一事を以っても不可知な理が日本にはある﹂︵訳文︶ 宣長︶﹁又、もろこしの国なとは、諸の戎の中には殷富の国と聞えたれとも、皇国に比すれば猶おとれり、皇国は彼に比すれは、境域はこよなく小狭なれ共、田地甚多くして人民の多きこと、彼国のよく及ふ所にあらす﹂。﹁宇内に於て皇国に及ふ国なし﹂ では、なぜ秋成はその真理が分からないのか。宣長から見ると、秋成の発言は自分が何者か自覚がないまま筋道の通った言説を用いる。それはうわべだけの道理に動かされて自動的に物事を解釈してしまうメカニズム、漢意そのものなのに本人が分かっていないからである。 宣長︶﹁然るに世の人たゝひたすらに漢籍にのみ惑ひて、皇国のかくの如く勝れて尊き子細をしらす、今上田氏も又た舊轍に泥みて、これをさとることあたはす。皮浅の論難をなすは、そもいかなる禍事︵まがこと︶ぞや。太古の傳説、各国にこれありといへ共、外国の傳説は正しからす。或はかたましを訛りて傳へ、或は妄に偽造して愚民を欺くもの也。漢字の通ぜざる国々の傳説も、大氐類推すべし。かの遥の西の国々に尊敬する天主教の如き、皆偽造の説なり﹂ 宣長︶﹁然るにわが皇国の古傳説は、諸の外国の比類にあらす。真実の正傳にして、今日世間︹界︺人間のありさま、一々神代の趣に符合して妙なることいふへからず、然るを上田氏たゝ外国の雑傳説と一ツにいひおとして、この妙趣をえさとらざるは、かの一点の黒雲いまた晴ざるか故也。この黒雲の晴ざる程は、いかほと説きさとす共、諺にいはゆる馬耳東風なるべし﹂ 秋成が真理を見つけるにはどうしたらいいか。それは道理や観念の働きにより自分自身に﹁ひがこと﹂を言わせている点を悟るしかない。ここで一つの例を宣長はあげる。藤原定家による小倉百人一首の巻頭の色紙、それはどこにあるかは知らないが世界に一枚しかない。ここに十人の人が色紙を持っていたとする。当然に本物は一枚で残りは偽物である。これは真の古傳説は一つであるのと同じである。 宣長︶﹁かくて上田氏の今の論は、皆是を贋物なりと云て、十枚ながら信ぜざるが如し。これ贋物なることを知てあざむかれざるは、かしこきようなれども、然れ共其中に一枚はかならず眞物のあることをえしらずして、大づもりに皆一ツに思へるはいかにぞや、是なまさかしらといふ物にして、その眞を見分ることをばえせずして、ただ贋に欺かざれざる事を、かしこげにいひなせる物也。そは何のかしこきことかあらん。一枚の眞物をよく見分てこれを信ぜむこそ、かしこきにはあらめ﹂ そう言えば上田氏はこういうでしょう。例え十枚のうち一枚の眞物があっても、十人の所有者は皆自分の色紙が眞物であると主張し、伝来の正しいことを各々言い立てるでしょう。どうやったら眞物を見分けられるのか教えていただきたいと尋ねるでしょう。 宣長︶﹁是又眞偽をみつから見定むることあたはさる故の疑ひ也﹂ 宣長︶﹁もしよく漢意のなまさかしらを清く洗ひ去て、濁なき純一の古学の眼を開きて見る時は、神代の吾古傳説の妙趣ありて眞実の物なること、おのつから明白に分れて、かの九枚の贋物とはいさゝかもまぎるゝことなかるへし。其域に至りなば、此眞物をかの贋物共と一ツさまにいへる事も、みつから恥かしかるへき物そや﹂ 宣長から見れば秋成の﹁自国の人が熱心に自国の神を信じ尊ぶのは当たり前です。言い換えれば、他国の人が他国の神を信じるのも当たり前です。天照大御神が全世界を照らす太陽であるという神話解釈はおかしいのです﹂という発言は、信じるものがない、真実を見分けられない人間の愚かしいあらわれで﹁又、なまさかしら心にて、実に信ずへき事をえしらざるひがこと也﹂という結論になる。 宣長︶上田氏が﹁日本人ならば日本の神話を信じているのは当然です﹂と発言したのは本心からではない。日本人という立場に立てば、天照大御神が全世界を照らすのは真実であり﹁天地は一枚なれは此国の人のみならす、万国の人みな信ずへきこと也﹂というべきです。﹁信じているのは当然です﹂というのは、実は真意を隠しながらそれでも信じているって顔していなさいといわんばかりです︵訳文︶。 宣長の﹁いかてか是を直しといはむ﹂として日の神をめぐる論争は終わった。 両者の論争は宣長の一方的な反駁で終わる。宣長は、秋成の本心は一貫して﹁何をがな非を見付出して、余か立説をくじかむとする物﹂であり、そのような秋成は﹁いといとあはれむへきこと也﹂とした。また弟子に対しては﹁上田氏の論いたく道の害となる物﹂とした。 藤貞幹の著した﹃衝口発﹄を宣長が批判したのを発端とし、論争ののち、宣長は﹃珂刈葭︵かがいか︶﹄を、秋成は﹃安々言︵やすみごと︶﹄を著した[2]。参考文献[編集]
●﹃上田秋成全集﹄、﹃本居宣長全集﹄、﹃日本倫理思想史﹄、﹃上田秋成研究序説﹄、﹃本居宣長﹄﹃もう一度読む山川哲学﹄ ●飛鳥井雅道﹁テキストとしての神話 ―本居宣長・上田秋成論争とその周辺―﹂﹃人文學報﹄第75巻、京都大学人文科学研究所、1995年3月、31-60頁、doi:10.14989/48440、ISSN 0449-0274、NAID 110000238775。 ●大阪市立大学文学研究科叢書編集委員会﹁上田秋成と大坂の精神 / ユーディット・アロカイ﹂﹃近代大阪と都市文化﹄︵PDF︶清文堂出版︿大阪市立大学文学研究科叢書﹀、2006年。ISBN 4792406145。 NCID BA77993166。全国書誌番号:21150700。脚注[編集]
(一)^ 古代音韻論争は宣長の﹃字音仮名用格﹄︵安永5年︵1775︶刊︶でも秋成との論争を生んだ。同年に秋成は上京、与謝蕪村は秋成の訪問をうけた友人の一人であった。蕪村は門下︵で後に夜半亭を継承する︶几董宛の書簡において﹁あらむつかしの仮名遣いやな、字儀に害あらずんばアヽまゝよ﹂と前書きして俳句を詠んだ。
んめ咲やどれがんめやらむめじやらら
明治32年(1899)5月5日、根岸の子規庵に集まって蕪村句集を輪講していたホトトギスの歌人たちがこの句を論ずる様子は﹃蕪村句集講義﹄︵春の部︶に掲載されている。
(二)^ 井関大介﹁上田秋成の神霊観 : 物語受容の観点から﹂﹃東京大学宗教学年報﹄第24巻、東京大学文学部宗教学研究室、2007年3月、67-92頁、doi:10.15083/00030508、hdl:2261/25975、ISSN 02896400。