景福宮

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座標: 北緯37度34分43.00秒 東経126度58分38.00秒 / 北緯37.5786111度 東経126.9772222度 / 37.5786111; 126.9772222

景福宮
各種表記
ハングル 경복궁
漢字 景福宮
発音 キョンボックン
日本語読み: けいふくきゅう
ラテン文字 Gyeongbokgung
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景福宮の位置(ソウル特別市内)
景福宮
ソウル特別市内の位置

: 

[]


13951-5620221867殿

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1392213941395使1397200使15531592西[1]

殿使270

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186518681896使殿1897寿1907191019121926使

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1996殿殿殿殿20225使1968200620101990201089186525%20112030379186575

建造物[編集]

前朝[編集]

興礼門
永済橋
慶会楼。1920年頃
  • 光化門(南門)
  • 興礼門
  • 永済橋
  • 日華門
  • 月華門
  • 勤政門 - 国宝第223号
  • 勤政殿
  • 隆文楼
  • 隆武楼
  • 思政門
  • 思政殿
  • 万春殿
  • 千秋殿

後廷[編集]

  • 嚮五門
  • 康寧殿
  • 両儀門
  • 交泰殿
  • 蛾眉山
  • 東宮
  • 慶会楼 - 国宝第224号
  • 欽敬閣
  • 含元殿
  • 慈慶殿
  • 醉香橋
  • 香遠亭
  • 乾清宮

附属建築[編集]

  • 建春門(東門)
  • 迎秋門(西門)
  • 玄武門(北門)
  • 東西十字閣
  • 泰元殿
  • 集玉斎
  • 協吉堂
  • 八隅亭
  • 景武台(青瓦台
  • 七宮

交通[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 朝鮮王朝の正史朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』二十五年(1592年)4月14日(癸卯)条には、民衆によって略奪・放火されたと明記されており、李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』と李曁の『松窩雑説』にもその時の様子が記されている。日本側記録『大徳寺文書』では国王が内裏に放火して逃亡したとある。また小西行長の一番隊に属した松浦鎮信の家臣の記録『吉野甚五左衛門覚書』には「五月二日の夕くれに、都は是より一日路と聞こえし所の河バた(端)にて、都のかた詠むれバ、放火のけぶり(煙)立登り、…(中略、翌朝入京すると)…くうでん(宮殿)・ろうかく(楼閣)数々に、だいりだいり(内裏々々)に火を掛けて、上下万民ことごとく、唐国さして落ちにける」との記録がある。いずれにせよ日韓双方の記録が秀吉軍の入城を前に焼失したとしている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]